
低い身分から天下人へと上り詰めた豊臣秀吉。その成功の裏には、家柄を無視した人材登用など、鎌倉以来の武士の伝統を破壊するほどの、冷酷ともいえる合理性がありました。身内すら駒として扱うドライな人間関係、重臣たちを戦慄させた「世襲否定」など、秀吉の真の恐ろしさに、歴史学者の本郷和人氏が迫ります。
※本稿は、本郷和人著『こわい日本史』(扶桑社)より一部抜粋・編集したものです。
戦国時代の大名は残酷だった、という話はよく聞きます。実際、戦争の時代ですから、残酷な場面はいくらでもある。しかし、その中でも私が「薄気味悪いな」と思うタイプの残酷さを持っているのが、豊臣秀吉です。
秀吉はご存じの通り、武士の家に生まれた人物ではありません。農民出身とも言われていますが、少なくとも名門武士の家柄ではない。だからなのか、あるいは逆に「だからこそ」なのか、秀吉は武士社会のルールをあまり守りません。その象徴が「人材登用の仕方」です。秀吉は家柄などをほとんど気にせず、その人の能力を見て、「お前は優秀だから10万石」「お前は働きがいいから20万石」という具合に、大胆に領地を与えていました。いわば能力主義です。現代の企業なら、優秀な一般社員をいきなり役員に抜擢するようなものですね。
もっとも、この点に関して言えば、秀吉だけが特別というわけでもありません。彼の主君であり、ある意味では師匠でもあった織田信長も同じことをしています。信長も、家柄より能力を重視して、「どこの馬の骨かわからないけど優秀だから取り立てる」というやり方をしていた。ですから、この部分だけを見ると、信長のやり方を秀吉が引き継いだとも言えるでしょう。
ところが、秀吉にはもう一歩踏み込んだ特徴があります。それが、家の相続に対する考え方です。たとえば秀吉が10万石の大名に取り立てた人物が、戦死したり、病気で若くして亡くなったりすることがありました。戦国時代ですから、30代や40代で亡くなる大名は珍しくありません。そうすると、跡を継ぐのは10歳くらいの子どもだったりする。ここで秀吉が何をするかというと、こう言うわけです。「10歳の子供に父親と同じ働きはできない。だから領地は返してもらう」と。
現代の感覚で言えば、これはむしろ合理的です。たとえば会社の部長が優秀だったから部長になったのであって、その息子が自動的に次の部長になるわけではない。そう考えると、秀吉の理屈はよくわかる。しかし、武士社会の感覚からすると、これはとんでもない話でした。武士の家というのは、一度家を起こして大名になれば、その家は世襲で続くというのが大前提です。どんなにボンクラでも、前の殿様の息子なら家を継ぐ。それが武士の常識でした。実際、江戸時代を見てもそうです。大名の息子が優秀かどうかは二の次で、とにかく家督は息子が継ぐ。だからこそ、藩の中で「お家騒動」が起きたりもするわけですが、それでも世襲そのものは疑われない。これは鎌倉時代から続く武士社会の基本ルールでした。
ところが秀吉は、そのルールを平気で壊してしまう。たとえば有名なのが丹羽長秀です。丹羽長秀は織田信長の重臣であり、秀吉にとってはむしろ先輩にあたる人物でした。秀吉は長秀に大きな領地を与えますが、彼が亡くなると、その息子からかなりの領地を取り上げてしまう。
さらに有名なのが蒲生氏郷です。氏郷は非常に優秀な武将で、信長にも秀吉にも仕えた人物です。秀吉はその能力を高く評価して、大きな領地を与えました。しかし氏郷は40歳で亡くなってしまう。おそらく死因は胃がんではないかと言われています。問題はその後です。跡を継いだ息子の蒲生秀行は、まだ10代でした。すると秀吉は「10代の子どもにこの領地は大きすぎる」と考え、ほとんどの領地を取り上げようとしたのです。
このとき、待ったをかけたのが秀吉の忠臣である石田三成でした。「それをやってしまったら、誰も殿のために命がけで働かなくなります」と反対した。つまり、家が続くという保証があるからこそ、家臣は命がけで働くのだ、というわけです。その言葉で、秀吉は思いとどまったと言われています。
似たような話はほかにもあります。たとえば、織田信長の家臣だった堀秀政という人物を見ていきましょう。秀政は「名人久太郎」というあだ名で知られていました。何が名人かというと、これがとにかく何でもできる。戦場でも強いし、行政能力もある。いまで言えば、現場もできるしデスクワークもできる、万能タイプのエリートです。若い頃は信長に仕えて小姓を務めていた人物で、森蘭丸の先輩にあたるとも言われます。しかもかなりの美男子だったらしく、信長の側近としても非常に重用された人物でした。
この堀秀政を、秀吉は越前北ノ庄の城主にしています。北ノ庄というのは由緒ある城で、かつて柴田勝家が本拠にし、その後は丹羽長秀が治めた重要な拠点です。そこを任せるくらいですから、秀吉が秀政の能力を高く評価していたことは間違いありません。ところが、この秀政が37歳で急死してしまいます。天正18(1590)年、小田原征伐の頃に、どうやら疫病のようなもので突然亡くなっている。普通ならどうなるか。武士の家ですから、当然息子が跡を継ぐ。これが当たり前の感覚です。ところが秀吉は、この決断をかなり渋る。やはり「子どもにそれだけの領地を治めさせるのはどうなのか」と思ったのでしょう。
この話を聞くと、秀吉のやり方はどこか現代的にも見えます。能力主義で、成果主義で、家柄ではなく実力を評価する。今の会社ならむしろ理想的かもしれません。しかし戦国時代の武士社会にとっては、それはあまりにも冷たい制度でした。命がけで戦って手に入れた家が、次の世代に残らないかもしれない。そう思ったら、誰だって命を懸けて戦う気は薄れます。
秀吉の政治は、ある意味では合理的でした。しかし、その合理性が行き過ぎると、かえって人の心が離れていく。戦国時代という「血縁と家」を中心にした社会では、そのズレがかなり不気味に映ったのではないかと思います。
豊臣秀吉の残酷さは、刀で斬ったり処刑したりという、そういう直接的な残酷さではなくて、どこか人間関係の扱いが妙にドライな点だったと私は思っています。ただし、そんな秀吉にも情がないわけではありません。面白いことに、彼は母親にはかなり情があったようです。儒教的な意味での「孝行」というより、生き物としての母親への愛情ですね。それはわりと素直に持っていたようです。
ところが、兄弟姉妹に対する感情は、急にドライになるのです。大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、弟の秀長とのやりとりが描かれていますが、秀長との円満な関係はあくまで例外。むしろ、兄弟に対しても、容赦がない人物だったのです。たとえば、小牧・長久手の戦いのあと、秀吉は徳川家康に対して「自分の家来になれ」と迫ります。そのとき家康に対して「大坂に来い」と要求するのですが、家康からすれば大坂に行くのはこわい。捕まって殺されるかもしれませんから。そこで秀吉がどうしたかというと、自分の母親を家康に対して人質に出す。「母を預けるから安心して来い」というわけですね。これはなかなか大胆な発想です。普通、人質というのは相手から出させるものですが、秀吉は逆に自分の母を出してしまう。
さらに驚くのは、そのあとです。秀吉には朝日(旭)姫という妹がいました。この妹は、もともとは農民に嫁いでいたと言われています。ところが秀吉が出世してくると、「妹の夫が農民では体裁が悪い」ということで離婚させてしまう。そして今度は武士と再婚させる。ここまでは、まあ戦国大名の身内としてはありがちな話です。しかし秀吉は、そこからさらに一歩進みます。なんと、その妹を徳川家康の正室にしてしまう。しかもそのとき、朝日姫はすでに40歳を過ぎていました。政略結婚とはいえ、妹を2度離婚させて、最後は家康の妻にする。秀吉という人は、こういうことを割と平然とやる。現代の感覚でもなかなか強引な婚姻だと言えます。
このあたりを見ると、秀吉という人物の人間関係は少し独特です。母親には情がある。しかし兄弟や家臣に対しては、どこか計算が先に立つ。そんな冷酷さを感じます。
更新:05月28日 00:05