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家康も恐れた「豊臣秀頼の賢さ」 秀吉が甥を切腹させ守った幼い後継者

出口治明(立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授)

豊臣秀頼
豊臣秀頼像(大阪市、玉造稲荷神社)

大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも注目を集めている、戦国の天下人・豊臣秀吉。しかし後年、豊臣政権は深刻な後継者問題を抱えることになる。側室・淀殿に秀頼が生まれたことで一変した秀吉の判断、甥・秀次の切腹、そして幼い後継者を守るために整えられた五大老・五奉行の体制――。だが、その仕組みは秀吉の死とともに揺らぎ、徳川家康の台頭を止めることはできなかった。出口治明氏の著書『一気読み日本史』より、その過程を紹介する。

※本稿は、出口治明著『一気読み日本史』(日経BP)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

側室に子どもが生まれて秀吉が自分の死後に備える

豊臣政権は、後継者問題でつまずきました。

豊臣秀吉は朝鮮出兵の前年、1591年に、甥の豊臣秀次に関白を譲りました。豊臣氏の世襲による武家関白制を続ける、という宣言です。

ところが、その2年後に側室の淀殿が息子を産みます。すると、その2年後の1595年、秀吉は秀次を切腹させます。さらに、秀次の妻と側室、子どもまで殺しました。淀殿が産んだ豊臣秀頼に、後を継がせたかったからだといわれますが、本当のところは、どうだったか。秀吉はどこでどう怒り出すのかが、よくわからない人でしたね。

それにしても、幼い後継者の下で長く続いた政権は、歴史を見渡しても、ほとんどありません。そこで秀吉は、自分の死後に備えます。

秀次を切腹させた1595年、大名同士が許可なく結婚することを禁止するなど、大名の同盟を防ぐ手立てを講じました。

さらに1598年、幼い秀頼を補佐するための五大老・五奉行の仕組みをつくりました。五大老に任命されたのは徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝の5人。五奉行は浅野長政、増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家の5人です。五大老・五奉行の仕組みを整えた直後、秀吉は死去します。

 

秀吉が死んだ途端に約束を破ろうとした家康

五大老・五奉行のなかで筆頭格は、徳川家康と前田利家です。

ところが、豊臣秀吉が亡くなった途端、筆頭格の家康が、有力な大名たちと姻戚関係を結ぼうとします。「秀吉様が禁じてたやろ」と、利家を中心に、ほかの大老や奉行たちは責めます。ここで家康はすぐに謝り、引き下がりました。

その直後、利家が亡くなります。すると、五奉行の一人の石田三成が、大坂から追い出されました。三成はなぜ、豊臣政権の本拠地から追い出されてしまったのでしょうか。

三成は、もともと秀吉の家臣でしたが、官僚として仕えてきた文治派でした。一方、秀吉の昔からの家臣には、武力をもって仕えてきた、加藤清正や福島正則などの武断派もいて、互いに反りが合いませんでした。それまでは、利家が重しになって、対立を抑えていましたが、その利家が亡くなった途端、武断派が三成を襲撃して、追い出したのでした。

利家の死去と三成の失脚で、家康は一頭地を抜く存在となりました。さらに家康は利家の後継ぎを失脚させます。浅野長政も蟄居を命じられ、五大老・五奉行の体制が崩れていきます。

家康は次に、上杉景勝に謀反の疑いをかけ、諸大名を動員して、会津征伐に出陣します。上杉氏はもともと越後(新潟)を本拠地としていましたが、秀吉の国替えで、このころには会津(福島)に移っていました。

ここで、三成が挙兵します。「家康は、秀吉様の亡き後、勝手ばかりしとるで」と。この知らせを、栃木の小山で聞いた家康は、すぐさま引き返し、岐阜の関ヶ原で、西側に布陣した三成らと向きあいます。天下分け目の関ヶ原の戦いです。

 

関ヶ原の戦いで経済力の勝負も決した

1600年、関ヶ原の戦いで、徳川家康の東軍の主力部隊となったのは、豊臣秀吉のかつての家臣たちでした。すなわち、石田三成を追い出した「武断派」の加藤清正や福島正則などです。

同じ秀吉の家臣で「文治派」の三成が挙兵したのが西軍ですから、関ヶ原は、実のところ、豊臣の家臣同士の戦いでした。

この戦いは、結局、西軍の敗北に終わりました。石田三成は京都の六条河原で斬られます。

会津の上杉景勝が120万石の領地を30万石に減らされるなど、西軍側の大名たちは領地を没収されました。没収された領地を合計すると、石高にして600万石、全国の約1/3に上ったといいます。

これらの領地を、勝利した側の大名が分けあいます。

東日本の領地は、主に、徳川一門と、その重臣へ。

西日本の領地は、東軍の主力部隊となった、加藤清正や福島正則などへ。

この結果、東軍側は、経済力で西軍側を圧倒することになり、家康と秀頼の間の勝負もつきました。

 

秀吉の子どもが賢いことに驚いて、難くせをつけた家康

関ヶ原の戦いから3年後の1603年、家康は、右大臣になると同時に、征夷大将軍に就任します。江戸幕府の誕生です。徳川家康はとうとう天下人になりました。

しかし、このとき、豊臣秀吉の子の豊臣秀頼も健在でした。秀頼は内大臣で、朝廷では、右大臣の家康に次ぐ高い地位にあります。

それから2年後の1605年、家康は子の徳川秀忠に将軍職を譲りました。徳川政権が続くことを、天下に示したわけです。

一方で、家康は、このとき、右大臣の座を豊臣秀頼に譲っています。将軍の秀忠は右大臣より格下の内大臣です。

この時点では、家康には、豊臣家を滅ぼすつもりはなかったのでしょう。秀頼が、父の秀吉の後を継いで関白になる可能性も十分あったと思います。

そんな家康の気が変わったのは、1611年、19歳になった秀頼と二条城で会見したときでしょう。「どうせお坊ちゃん育ちやろ」と侮っていた秀頼が結構、賢いことがわかったのです。当時は豊臣氏にシンパシーを感じる大名たちもいて、「これは潰しておかんとあかん」となった、と見る向きもあります。

家康は、豊臣家に難くせをつけます。豊臣家の氏寺である方広寺の鐘の銘文が「国家安康」となっているのが、けしからんというのです。「家康の名前を2つに割いて、呪っているんやないか」と。これをきっかけに1614年、大坂冬の陣が勃発します。翌1615年の大坂夏の陣で敗れた豊臣家は、滅びました。

 

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