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秀吉も家康も大ウソつきだった!情報戦に長けた天下人の驚くべきハッタリ戦略とは?

真山知幸(伝記作家、偉人研究家)

豊臣秀吉

2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉とその弟・秀長の物語だ。大言壮語の兄・秀吉は、ハッタリを駆使しながら出世街道をかけ上っていく。そしてもう一人、平気でウソを並べ、情勢をコントロールしていく戦略上手が「狸親父」と呼ばれる徳川家康。彼らがついた驚くべきウソとはーー。親しみやすい文体で定評のある伝記作家が解説する。

※本稿は、真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)より一部抜粋・編集したものです。

 

信長は「本能寺の変」の襲撃を切り抜けた?

柴田勝家のことなど眼中にない─。
秀吉にはそれくらいの勢いがあったらしい。勝家との賤ヶ岳の戦いが始まって間もない天正11(1583)年4月12日、小早川隆景宛てに、こんな手紙を出している。

「播州より西のことは知らないが、東においては、津軽・合浦・外浜までも、われらの槍先に堪えられる者はいそうもない」
あたかも関東の果てまで勢力を伸ばしているかのように書いている秀吉。この時点で、すでに全国制覇をにらんでいたことがわかる。

秀吉の戦略的な嘘は本能寺の変直後にも発揮された。信長が討たれてから3日後、秀吉は、摂津茨木城主の中川清秀に事態の顛末を聞かれて、次のような手紙を書いた。

「これからお伝えしようと思っていた時、そちらからご教示に預かり、満足に思っている。さて、ただ今京より下ってきた者が確かに言った。上様ならびに殿様、いずれもなんのお障りもなく明智光秀による襲撃から切り抜けなされた」

上様とは織田信長、殿様とはその息子で織田家の当主となっていた織田信忠のことだ。「何のお障りもなく」どころか、殺されているにもかかわらず、手紙にはおくびにも出していない。秀吉は平然とこんな嘘をつきながら、翌日から中国大返しを行うことになる。

嘘と言えば聞こえが悪いが、情報戦にほかならない。そして大言壮語を吐くのは、兄の得意分野だと弟の豊臣秀長はよく知っている。
「自分にはできないことをやってのけるのが兄者だ」
そんな思いがあったからこそ、振り回されても兄についていくことができたのだろう。
だが、そんな兄と同じく戦略家で、腹の読めない敵が、兄弟の前に立ちはだかることとなった。「狸親父」とまで呼ばれた徳川家康である。

 

「屋形としてあがめて慕う」と言いつつも...

戦国の世において、秀吉が家康を相手にたった一度だけ正面衝突した戦い、それが天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いだ。秀吉からすれば、あとは家康さえ叩いてしまえば、という思いが強かったことだろう。

なにしろ、賤ヶ岳の戦いでは勝家だけではなく、信長の三男である織田信孝も死に追いやっていた。勝家に荷担していた滝川一益も降伏し、もはや向かうところ敵なしである。
そうなると残るは、織田信長の次男にあたる信雄、そして信長の同盟相手だった家康をどう排除するか。それが、秀吉にとって目下の課題だった。

「屋形としてあがめて慕う」

「屋形」とは当主のことで、秀吉が信雄について言ったとされる言葉である。
信雄は尾張・伊勢・伊賀の三国を領有。信忠の遺児・三法師の後見役にもなり、実質的に織田家の家督を継いでいた。

だが、秀吉の勢いが増すにつれて、信雄はないがしろにされていく。秀吉は摂津の池田恒興・元助父子を美濃に移し、自身は大坂城の築城にも着手。信長の安土城を上回る規模の城を築き始め、天下人として振る舞い始める。

われこそが信長の後継者と言わんばかりに、諸大名に書状を出す秀吉に対して、信雄は面白くなかったらしく、家康へと接近していく。

そして、天正12(1584)年3月6日、信雄は家臣のなかでも、秀吉と内通していると思われる岡田重孝、浅井長時、津川義冬の三家老を誅殺。それに呼応して、家康は翌7日に浜松城を発ち、8日に岡崎城を出た。13日には清州城で信雄と協議すると、尾張の小牧山城に本陣を敷いている。

信雄の反抗に秀吉は「もってのほか腹立て」と『兼見卿記』には記されている。怒れる兄を見て、その性格を誰よりも知る秀長は、家康との戦になると確信したことだろう。

ところで秀長は、この家康と激突した小牧・長久手の戦いの最中に、これまで使ってきた実名の「長秀」から「秀長」へと名前を変更。以後は死ぬまで秀長と名乗り続けた。
秀長はこの家康との戦いこそが、豊臣家の行方を決定づけると考えて、最後の改名を行ったのかもしれない。

 

大将を勝手に討ち取ったことにした家康

家康は小牧山城に、秀吉は尾張の犬山城に、それぞれの本陣を敷いて戦は膠着状態が続いていたが、秀吉方についた池田恒興や森長可らが動く。手薄となった岡崎城を攻めて、家康勢を小牧山城から、おびき出そうとしたのだ。

だが、家康はこの作戦を察知する。「それなら兵をさしむけよう」(『三河物語』)と、4500の兵を先発させ、自らも織田信雄と9000の兵を率いて追撃。見事に秀吉方を討ち破っている。

家康はすぐさま家臣の平岩親吉と鳥居元忠に、こんな書状を送っている。

「今日9日の午の刻に、岩崎において合戦し、池田紀伊守(恒興)、森長可、堀秀政、長谷川秀一ら敵の大将を始めに1万人を討ち取った」

さらに「このまま上洛する」とまで書いているのだから、意気揚々とはまさにこのことだろう。しかし、この手紙の内容は、やや事実とは異なる。
敵将の池田恒興・元助の親子、そして、森長可らを討ち取ったのはその通りだが、堀秀政や長谷川秀一らは無事である。

翌日の10日には、丹波氷上郡の土豪である赤井(蘆田)時直にも書状を出して、やはり戦果を書き綴っている。

「昨日9日に合戦に及んだところ、池田勝入(しょうにゅう、恒興)ら父子3人を始めに、森長可、堀秀政、長谷川秀一、三好孫七郎、そのほか、大将を10人あまりのほか、1万人ほど討ち取った」

またも討ち取られていない堀秀政、長谷川秀一の名が連ねられているうえに、今度は三好孫七郎の名まで加わっている。三好孫七郎は三好信吉の通称であり、のちの豊臣秀次である。秀吉の甥で、家康に撃破された別動隊では大将を務めた。壊滅的な大敗を喫しながらも、命からがら逃亡しており、討ち取られてはいない。

戦から1日経って情報が正確になるどころか、より大げさになっている家康の書状。これもまた、彼の戦勝ムードを高める方法の一つなのだろう。

秀吉に負けないほど「ハッタリ力」を発揮した家康だったが、のちに秀長は家康を奈良見物に案内するなど、仲を深めていく。兄の秀吉と同様に、自分と全く違うタイプだけに、意外と相性は良かったのかもしれない。

プロフィール

真山知幸(まやま・ともゆき)

伝記作家、偉人研究家

1979年、兵庫県生まれ。2002年、同志社大学法学部法律学科卒業。上京後、業界誌出版社の編集長を経て、2020年より独立。大学講義や経営者向けのセミナーでの講師活動やメディア出演のほか、雑誌やウェブ媒体への連載も数多く持つ。

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