2021年05月26日 公開
2023年01月05日 更新
映画「るろうに剣心」の最終章が公開され話題となっているが、その主人公のモチーフは、幕末京都を騒がせた「人斬り」といわれている。
薩摩の田中新兵衛、中村半次郎、土佐の岡田以蔵、肥後の河上彦斎──。彼らは何を想い、剣を振るったのか。今回は4人のうち、河上と田中について解説しよう。
※本稿は、『歴史街道』2021年6月号の特集「『幕末京都』の真実」から一部抜粋・編集したものです
幕末の京都で活躍した志士のうち、ひときわ異彩を放っているのが「人斬り」と呼ばれた男たちだった。もっとも幕末当時の史料には、彼らが「人斬り」と呼ばれたという記述は見当たらず、その呼称は明治期に入ってから誕生したものと考えられる。
現在、一般的に「四大人斬り」と称されているのは、田中新兵衛、中村半次郎、岡田以蔵、河上彦斎の4人。彼らのほかにも、維新の志士のなかには目的のために人を斬った者も当然いたが、なぜ彼ら4人だけが「人斬り」とされたのか。
河上彦斎と面識のあった、幕臣勝海舟がこう語り残している。
「河上というのは、それはひどい奴サ。コワクテコワクテならなかったよ。(略)あまり多く殺すから、ある日、ワシはそう言った。『あなたのように、多く殺しては、実に可哀相ではありませんか』と言うと、『ハハア、あなたは御存じですか』と言うから、『それは分っています』と言うと、落付き払ってネ。
『ソレハあなたいけません。あなたの畠に作った茄子や胡瓜は、どうなさいます。善い加減のトキにちぎって、沢庵にでもおつけなさるでしょう。アイツラはそれと同じことです。どうせあれこれと言うて聞かせては、ダメデス、早くチギッテしまうのが一番です。アイツラは幾ら殺したからと言って、何でもありません』と言うのよ──」(『海舟座談』)
この談話によれば、海舟にとって彦斎は、人を殺すことを何とも思っていない冷血漢だったようだ。「人斬り」と呼ばれる者の本質は、実際このようであったのかもしれない。
河上彦斎は天保5年(1834)11月25日、肥後熊本城下新馬借町の下級藩士小森家に生まれた。幼名は彦治郎。11歳頃に同じく下級藩士の河上家の養子となり、16歳で元服して彦斎と改めた。
同年、藩の茶坊主に召し抱えられ、御花畑の御掃除坊主として藩主に近侍した。その後も坊主職を順調に歩む一方、学問を轟武兵衛や林桜園に、兵法を宮部鼎蔵に学んだ。
しかし剣術に関しては、何流の誰について学んだか、まったく伝わっておらず、おそらくは独学であったのだろう。また『河上彦斎言行録』によれば、「彦斎人ト為リ白哲(白皙)精悍。眼光人ヲ射ル。軀短ニシテ歯出ツ。人ニ接スル恰カモ婦人ノ如シ」とある。小柄で女性のように物腰がやわらかいというのが、彦斎の印象だった。
文久2年(1862)11月、坊主職を免じられ蓄髪を許され、身分を通常の藩士とすることが仰せつけられた。以後は、宮部鼎蔵を中心とする肥後勤王党に参加し、尊王攘夷の実現のために尽くした。
元治元年(1864)6月5日の池田屋事件で宮部ら同志が討たれたことを知ると、彦斎は滞在中の長州から急ぎ京都に上った。憤懣やるかたない彦斎の標的となったのが、信州松代藩の兵学者佐久間象山だった。
象山は開国論者として尊攘派から憎まれていたが、加えてこのたび天皇を近江彦根に動座する暴論を唱えているというのである。
これが許せなかった彦斎は、7月11日昼、木屋町通りを馬で闊歩していた象山を同志とともに待ち伏せ、問答無用で斬り伏せた。斬奸状には、天に代わって誅伐するという意味の「天誅」の文字が躍っていた。
彦斎が幕末期に何人の人を斬ったかはわかっていないが、確実なものはこの一件だけである。何か思うところがあったのか、以後は一人も斬ることはなかったと伝えられる。
多くの尊攘志士は、目標である明治維新がなると、それまで主張していた攘夷論を捨てた。しかし純粋に尊王攘夷を追い求める彦斎には、そんな妥協がどうしてもできなかった。
彦斎の処遇に手を焼いた熊本藩は、ついに明治3年(1870)11月、政府に対する反逆罪で彦斎を投獄した。翌4年(1871)5月には東京に送られ、結局一度も審問がおこなわれないまま、12月3日に彦斎は死罪となった。年38歳。ある意味、人斬りにふさわしい末路だった。
更新:11月23日 00:05