2021年05月26日 公開
2023年01月05日 更新
幕末期に最初の人斬りとして名をあげたのは、薩摩藩の田中新兵衛である。
薩摩藩領前ノ浜の薬種商の家に新兵衛は生まれた。長じて前ノ浜で船頭をつとめるようになったが、要するに武士階級の出身ではなかった。それが、同藩の森山新蔵に引き立てられ、藩士の末席に加わることができた。
念願の武士の身分を手に入れることができた新兵衛だったが、肝心の剣術については、河上彦斎と同様に師匠や流派がわかっていない。ただ薩摩藩においてはほとんどの者が示現流、もしくは分派の薬丸自顕流を学んでいるため、新兵衛の場合もそのどちらかであった可能性が高いだろう。
文久2年、尊王攘夷思想を抱いて京都に上る。そして7月20日夜、かつて安政の大獄で尊攘派を弾圧した九条家家士・島田左近を木屋町の妾宅に襲い、斬殺した。
島田の首は青竹に突き刺され、四条河原にさらされたが、そこには「天誅を加え梟首せしむ者なり」と記した斬奸状が添えられた。これが、幕末の天誅事件の第一号であり、いわゆる人斬りの端緒だったのである。
島田を憎む者は多かったため、それまで無名の存在だった新兵衛の名声は一気に高まった。新兵衛自身も、自分の剣によって尊王攘夷が実現できると、錯覚することになる。
閏8月7日、土佐勤王党の首領武市半平太と対面し、義兄弟の契りを結ぶほど親交を深めた。以後、武市の指示で天誅を実行するようになり、裏切り者の越後浪士・本間精一郎を岡田以蔵と協力して斬殺。斬奸状を添えて四条河原に梟首した。
こうした行動が問題視されたのか、新兵衛は藩命でいったん薩摩に帰藩を命じられる。京都に戻ることができたのは、翌文久3年(1863)3月のことだった。
しかし、その矢先の5月20日、公家の姉小路公知が御所から退出する途中、朔平門外で殺害される事件が起こった。
刺客の刀が現場に残されていたため、京都中の刀剣商に見せたところ、奥和泉守忠重という薩摩鍛冶の刀とわかり、さらに一人の刀剣商が薩摩藩の田中新兵衛の佩刀だと証言したのである。
26日、新兵衛は京都町奉行所に出頭し、奉行永井尚志から証拠の刀を突きつけられた。するとそれを見た新兵衛は、一言も発せずに腰の脇差を抜いて自らの腹を切り、返す刃で喉をかき切って果てたのだった。
この刀は、何者かが新兵衛を 陥れるためにあらかじめ盗んだものであったともいい、本当に新兵衛が下手人であったかどうかは、誰にもわからなくなってしまった。新兵衛は生年がはっきりしていないため、享年も不明である。
更新:11月23日 00:05