永禄8年5月19日(1565年6月17日)、松永久秀と三好三人衆が将軍の御所を襲った「永禄の変」で、13代将軍足利義輝が討死しました。義輝は最期まで獅子奮迅の働きをした剣豪将軍として知られます。
5月19日の未明のことでした。京都二条の将軍御所は、三好家の家宰・松永弾正久秀と三好三人衆の軍勢に囲まれます。一説にその数、2000。三好勢は「公方様へ訴訟の儀あり」と偽っていたものの、その狙いは将軍義輝の命でした。
天文18年(1549)の江口の戦いで勝利した三好長慶は、管領細川晴元や将軍足利義輝を近江へと追い、京都で三好政権を築きます。しかし近江の六角氏を味方につけた足利義輝の反撃にあい、永禄元年(1558)には和睦。長慶は幕府相伴衆となって、義輝に屈しました。
さらに三好家内部での争いが起こり、永禄7年(1564)には当主の長慶が没します。凋落の道をたどる三好家でしたが、その中で台頭したのが、家宰の松永久秀でした。松永は、幕府内において着々と将軍親政の体制を固めつつある義輝が邪魔になります。そして義輝の従兄弟・義栄(よしひで)を新将軍として擁立し、義輝の排除を企てたのでした。排除とは、すなわち殺害です。
一方、この時、将軍の御所にいる人数はおよそ200。そのうち戦力となるのは半数にも満たないものでした。三好勢に包囲されたと知ると、義輝は覚悟を固め、近臣らと水盃を交わしてから、主従30人ほどで討って出たといわれます。将軍側の応戦は三好勢の予想以上に激しいもので、一色淡路守らが寄せ手を数十人討ち取った他、福阿弥という槍の達人が、一人で多数の敵を倒しました。そして将軍義輝もまた、畳に将軍家伝来の名刀を十数本突き立て、自ら敵を斬り倒します。
一説に義輝は、かの剣聖・塚原卜伝より奥義「一の太刀」を伝授された使い手でした。そして刀身に脂が巻いて切れ味が悪くなると、次々と名刀を交換しては斬り続けました。『足利季世記』には「公方様御前に利剣をあまた立てられ、度々とりかへて切り崩させ給ふ御勢に恐怖して、近付き申す者なし」と記されています。その刀は、「鬼丸國綱」「大包平」「九字兼定」「朝嵐兼光」「綾小路定利」「二つ銘則宗」「三日月宗近」などの名刀ばかりであったといわれます。
しかし、多勢に無勢。さすがに義輝が疲労し始めたところを狙われて槍の柄で脛を払われ、転倒したところを敵が襖をかぶせ、その上から槍で刺されて絶命しました。義輝、享年30。
「五月雨は 露か涙か 不如帰 わが名をあげよ 雲の上まで」
将軍の権力回復を志した末の非業の死でした。義輝が最後に手にしていた太刀は、源頼光が大江山の鬼を退治したといわれる、「童子切安綱」であったといわれます。
更新:11月21日 00:05