慶長17年4月13日(1612年5月13日)、巌流島の決闘がありました。宮本武蔵と佐々木小次郎の真剣勝負として知られます。 「遅いぞ、武蔵。臆したか」「小次郎、敗れたり。勝つ者が何ゆえに鞘を捨てるか」。といった台詞が小説やドラマなどではおなじみです。
武蔵のいでたちといえば、船の櫂を削って得物とし、たすきがけで額には柿色の鉢巻を結び、一方の小次郎は、前髪立ちの美青年で緋色の袖なし羽織をまとい、物干し竿の異名を持つ愛刀を手にする姿が一般的でしょう。ところが、これは武蔵の死後に書かれた『二天記』などをもとに後世の読み物や小説が作り出したもので、そもそも佐々木小次郎がどんな男かもわからないのが実情です。
小次郎の出身地は豊前とも越前ともいわれ、一説に英彦山の山伏出身ともいわれます。越前の富田流・富田勢源に師事したとも、勢源の弟子・鐘捲(かねまき)自斎の弟子であったともいわれますが、勢源の弟子であれば巌流島の時には70歳前後の老齢、自斎の弟子ならば40歳前後となり、18歳どころか武蔵よりも年上になります。小説などでは師の勢源が小太刀の奥義を極める際に相手を務め、勢源の使う刀がどんどん短くなるにつれ、小次郎の刀は長いものとなったと面白く描かれます。その後、諸国武者修行を重ねて「燕返し」の秘技を編み出し、巌流という流派を立てて小倉藩細川家の剣術指南役となりました。
一方の武蔵は新免無二斎の子で、天正12年(1584)頃の生まれ。出身地は播州とも美作ともされます。父の無二斎は黒田家に仕官しており、関ケ原の折には武蔵は、九州で父とともに東軍として戦った可能性が高いという説があります。その後、慶長9年(1604)頃には京都に上り、「扶桑第一」と称された吉岡一門に勝利しました。
武蔵が京都から小倉に下ったのは慶長17年(1612)4月、29歳の時。当地には父の弟子であった細川家家老・長岡佐渡がいたので、その屋敷に滞在し、細川家剣術指南役・佐々木小次郎の評判を聞いて、試合を申し込みました。別の説では武蔵と小次郎の弟子同士がいさかいを起こし、どちらの師が優れているかを証明するために、試合に及んだともいいます。いずれにせよ細川家公認のもと、試合は下関沖合の小島・船島(巌流島)で、4月13日の朝に行なわれることになりました。
武蔵は長岡の屋敷を出て、下関の問屋に宿を取り、試合当日は2時間以上も遅れて、船島に現われます。相手を苛立たせる武蔵の心理作戦であったといわれますが、私などはうっかりすれば、小次郎の不戦勝になっていたのではと思ってしまいます。
勝負は一瞬でした。小次郎の長刀は武蔵の鉢巻を切り裂き、武蔵の櫂の木刀は小次郎の頭部を強打します。小次郎は倒れ、武蔵が近づくと、小次郎の刀が横に払われて武蔵の着衣の裾を切りました。小次郎の最後の一撃でした。辛くもかわした武蔵はとどめを刺し、勝負が終わります。しかし一説に小次郎はまだ死んでおらず、その後、武蔵の弟子らに殺されたとも、また武蔵も小次郎の弟子たちの襲撃を切り抜けたともいわれます。 細川藩公認の試合にしては、諸説入り乱れる巌流島の決闘ですが、とはいえ、やはり一番絵になるのは力強い武蔵と、前髪立ちの美青年剣士・小次郎の勝負かもしれません。
更新:11月23日 00:05