
戦国時代というと、殺伐とした世を思い浮かべます。
でも、乱世にあっても人は人。主従の心通い合う様が伝わってくる逸話が、数多く残されています。頼りなさげな弱将や油断ならぬ謀将が見せる意外な横顔...。
そこからは、人間関係を良好に保つ秘訣も見えてくるかもしれません。
今回は、蒲生氏郷と小田氏治の逸話をご紹介しましょう。
蒲生氏郷は、はじめ織田信長の家臣であり、その才を見込まれて信長の次女を娶って、数々の合戦で武功を挙げた武将だ。信長の死後は羽柴秀吉に属し、天正12年(1584)の「小牧・長久手の戦い」の功により、伊勢国松ケ島城城主となった。
しかし、そのころの氏郷は金銭面で非常に苦労しており、手柄を立てた家臣に対しても十分な恩賞が出せないほどだった。そこで氏郷は、あるとき功のあった家臣たちを屋敷に招き、酒や料理でもてなしたあと、風呂に入るよう勧めた。
家臣たちが湯船に浸かっていると、外から湯加減を聞く声がする。声に聞き覚えがあったため、家臣たちが湯殿の外を覗いてみると、なんと氏郷が煤で顔を黒く汚しながら薪をくべて風呂を焚いていた。
当時、風呂を焚くなどというのは下男の仕事だったが、恩賞を与えられない代わりに、せめてもの心尽くしとして氏郷は自らの手で風呂を焚き、家臣たちをもてなしたのだ。その主君の姿に、家臣たちは心打たれ、涙したという。
その後、手厚いもてなしに感激した家臣たちによって、この話は「蒲生風呂」として家中に広まった。そして、そのとき屋敷に招かれなかった家臣たちは、自分たちもいつかは「蒲生風呂」に入りたいと懸命に奉公に励むようになったと伝えられている。
弱小ということでいえば、「戦国時代最弱の大名」と評されているのが、常陸国の大名だった小田氏治である。
なにしろ、氏治は大事な合戦でことごとく敗れ、居城であった小田城を8回(9回とも)も敵に奪われているのだ。その弱さから後世、織田信長との対比で「弱いほうのおだ」とも呼ばれている。
だが、8回居城を奪われたということは、7回取り戻したということでもある。そして、それを支えたのが、父の代から小田氏の重臣を務めていた菅谷政貞を筆頭とする家臣団だった。
氏治が最初に小田城を奪われたのは、弘治2年(1556)に結城政勝と北条氏康の連合軍に敗れたときのことだ。このとき氏治は家臣の政貞が城主を務める土浦城に命からがら逃れたが、北条方と和睦することで政勝を撃ち破り、その年のうちに小田城を奪回した。
しかし、翌弘治3年(1557)に今度は佐竹義昭に敗れ、またしても小田城を失ってしまう。だがこのときも、政貞の活躍によって2年後に小田城を取り戻している。
このように何度も復活を遂げた氏治だが、なかでも凄かったのは、永禄7年(1564)に上杉謙信と戦ったときのことだ。「山王堂の戦い」で壊滅的な敗北を喫し、多くの将兵を失って小田城も奪われた氏治だったが、政貞をはじめ残った家臣団たちが一致団結し、わずか1年後に「戦国最強」とも謳われた謙信から居城を取り戻しているのである。
戦国時代、主君に先がないと判断すれば、家臣が見限って別の主君に仕えようとするのは普通のことであった。
それにもかかわらず、何度敗れても氏治の家臣たちが主君を捨てずに支え続けたのは、よほど人望があったためだろう。また、領民たちにも慕われており、氏治が小田城を奪われても新しい領主には年貢を納めず、氏治が戻って来るのを、そのつど待ったともいう。
更新:04月20日 00:05