
織田信長の筆頭家老として「北陸の門番」を託された柴田勝家。越前国(現在の福井県北部)を拝領し、賤ケ岳の戦いに敗れて生涯を閉じるまでは、変容する時代の波に抗い、武士としての矜持を貫き通した後半生でした。『豊臣兄弟!』で柴田勝家役を演じる山口馬木也さんが、福井県に点在する勝家ゆかりの地を訪問。その様子を、おとどけします。

福井を訪ねるのは初めて、という山口さんが最初に立ち寄ったのは「一乗谷朝倉氏遺跡」。一乗谷は信長軍によって滅ぼされた朝倉氏の本拠地でした。勝家も一乗谷の焼き討ちに加わっています。朝倉氏が滅びてから2年後の天正3年(1575)、勝家は越前の大部分を任され、焼野原となった一乗谷ではなく、北庄に本拠地を移して9層の天守を持つ巨大な城を建設しました。
北庄は、京都と北陸を結ぶ北国街道上にあり、足羽川による水上交通のターミナルです。日本海交易で栄えた三国湊にも、舟運でつながっています。北庄の平城は山あいの一乗谷城と違い、城下町を拡大しやすく、一向一揆の勢力がくすぶる加賀方面へも軍勢を動かしやすく、上杉謙信ら東方の脅威に備えるフロントラインとしても最適でした。
主君である信長が次々と新しい町づくりに着手したように、勝家もまた北庄に新たな物流拠点や軍事のネットワークを築こうとしたのでしょう。

「信長軍が焼き討ちを行った一乗谷がこのような山間の空間であることに驚きました。撮影前に訪れていれば、もう少し違った勝家を出せたかもしれませんね」(山口さん)
勝家自筆の安堵状
勝家は「鬼柴田」の異名が示す通り、武骨な軍人というイメージが強いですが、越前の地を歩くと、その統治がいかに細やかで領民に寄り添ったものであったかがわかります。
勝家は朝倉攻めや一向一揆で荒廃した寺社を保護し、地域の治安維持に心血を注ぎました。一乗谷への大手道の入口にあたる東大味町の西蓮寺には、勝家が発した安堵状や柴田勝家公御木像が残されています。近くにある明智神社(明智光秀を祀る神社)は、もともと光秀の住居跡であったという伝承があり、勝家は本能寺の変後も光秀ゆかりの地に手荒なことをせずに治めていたと想像できます。
勝家は、政情不安定な越前において、力でねじ伏せるのではなく、秀吉に先駆けて刀ざらえ(刀狩り)を実行して兵農分離を推し進めており、領民にとっては恐ろしい征服者ではなく、安寧をもたらす名君だったのではないでしょうか。
西蓮寺に伝わる柴田勝家公御木像に手を合わせる山口さん
山口さんが訪れると東大味町の町民が西蓮寺に集まり、勝家様の歓迎ムード一色
坂井市の丸岡城は、北庄城の支城として勝家の甥・柴田勝豊(かつとよ)によって築かれました。勝家の時代には加賀国をにらんだ攻撃と防衛の拠点で、天守は、江戸時代以前に建設された「現存12天守」の一つです。
重要文化財である丸岡城天守
当時の越前は、上杉謙信という巨大な脅威と対峙する最前線でした。丸岡城の武骨な野面積みの石垣を見上げると、雪深い北陸の地で、常に死と隣り合わせの緊張感を抱きながら「織田の壁」であり続けた勝家と勝豊の矜持が伝わってきます。
坂井市の池田禎孝(よしたか)市長と角明浩学芸員の案内で傾斜角約65度の丸岡城の階段を昇る山口さん

「いままでお城に住みたいと思ったことは一度もないですが、丸岡城のフォルムの美しさと威容を見ると思わず住んでみたくなりました(笑)」(山口さん)

西光寺の墓に手を合わせる山口さん
勝家の後半生は、本能寺の変、清須会議、そしてお市の方との結婚と続き、賤ケ岳の戦いで秀吉に敗北して北庄城で最期を迎えます。
北庄城を囲まれた際、勝家はお市の方と三姉妹に城を出るよう促しました。しかし、お市の方は共に死ぬことを選びました。北庄城の跡地に建つ柴田神社は、勝家とお市の方を、そして柴田神社の境内社・三姉妹神社では浅井三姉妹を祀っています。
ここで見えてくるのは、冷徹な武将としての顔ではなく、愛する妻子を最後まで守り抜こうとした、勝家の夫としての父としての素顔でした。
北庄城跡
北庄で自害した勝家とお市の方はいま、福井市の西光寺に眠っています。西光寺は天台真盛宗のお寺であり、もともと朝倉氏が滅ぼした相手を弔うために建立したもので、その朝倉氏を滅ぼした勝家とお市夫妻が弔われているというのは奇縁でしょう。さらにいうと、天台真盛宗の総本山西教寺が明智光秀の菩提寺という偶然は、運命のいたずらとしか思えません。
西光寺には、勝家が大切にしていた宝刀や念持仏、そのほか数々の遺品が展示されている「柴田勝家公資料館」があります。
北庄城落城の際、勝家は「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名に 雲井まであげよ 山ほととぎす」という辞世の句を詠みました。一乗谷から始まり、西光寺で終わる勝家の越前での足跡を辿ると、勝家という人物の多面的な魅力が浮かび上がります。
勝家は秀吉のようなしなやかな如才なさは持ち合わせていませんでしたが、越前の地には、彼を慕った人々の記憶が今も深く息づいています。
辞世の句
西光寺の墓に手を合わせた山口さんは、心の中でお二人はどんなご夫婦だったのですかと問いかけたという。「勝家の最期の撮影の際、私の中でどのような“走馬灯”がよぎるのか。いまから楽しみですし、期待していただきたいですね」(山口さん)
更新:04月12日 00:05