一乗谷に再現された「朝倉館」に立つ朝倉義景役の鶴見辰吾さん
戦国大名・朝倉義景は、一乗谷(いちじょうだに。現・福井県)を拠点に「北陸の小京都」を築き上げた人物として知られています。天正元年(1573)一乗谷はいくさによって灰燼に帰しましたが、遺跡からは、義景が北陸に写し取ろうとした美しき都の面影を強く感じることができます。2月中旬、大河ドラマ『豊臣兄弟!』で義景役を熱演する俳優の鶴見辰吾さんが、一乗谷を訪れました。

「私がこの時代に生きていたら一乗谷に住みたかったと思うほどの文化レベルの高さですね。当時の住民が1万人という規模感に驚きました」(鶴見さん)
鶴見さんが最初に訪れたのは「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館」。当館は、戦国時代の没入感のある空間展示が特徴です。五代当主・朝倉義景が暮らした館(朝倉館)の一部を原寸大で再現しており、室内の意匠や庭園の眺めを当時の視線で体感できます。城下町の全貌を1/30スケールのジオラマでも見ることができます。船着き場である川湊(かわみなと)の遺構が、発掘された当時の石敷きのまま、露出展示されています。
川湊の遺構展示
茶道具や将棋の駒、文房具など、重要文化財を含む170万点におよぶ一乗谷の出土品は、戦国時代のリアルな生活を体感できる重要文化財級の貴重な資料です。義景は単なる地方領主ではなく、傑出した教養人でした。応仁の乱後、朝倉家は戦乱から逃れた公家や僧侶を積極的に受け入れ、彼らがもたらす一流の文化を一乗谷に移植したのです。その結果、荒々しい戦国時代にあって、一乗谷では、都から訪れた客人をもてなす宴が催されました。一乗谷の繁栄ぶりは、もてなしを受けた客人たちが詠んだ歌によって今に伝えられています。
義景が拠点とした越前は、古代から日本海交易の要所であり、肥沃な平野を持つ非常に豊かな国でした。長らく大規模な戦火に巻き込まれなかったため、生活水準がとても高かったと考えられます。街道や河川を通じて国内外から多くの人や物資が往来し、戦国当時、1万ほどの人々が住んでいたと推定されており、道路、井戸、トイレなど生活を支えるインフラ基盤も整っていました。
義景は、一乗谷という独自の文化圏を築き上げた名門・朝倉家の当主であり、彼にとっての一乗谷は、先祖から受け継いだ財産であり、後世に守り継いでいくべきものでした。義景の理想は、力による天下統一よりも、文化の力による平和な理想郷の維持にあったのではないでしょうか。しかし、京都文化を重んじ、名門としての誇りをもつ義景は、新時代の覇者・織田信長との対比で"甘い"と見なされることもあります。なぜ、朝倉家は滅んでしまったのでしょうか。
義景は足利義昭を奉じて上洛する絶好の機会がありながら、越前の安定と一乗谷の繁栄を優先し、動こうとはしませんでした。家臣団との関係についても、朝倉家の軍事力はそれぞれの領地に根ざした国衆の集合体のため、家臣は土地を守ることを最優先し、長期遠征を強いることが困難であったとも考えられています。
一方、信長の土地に対する考え方は、義景と対照的に見えます。信長は清須、小牧山、岐阜、そして安土へと、戦略上の必要性に応じて次々と居城を移しています。また、楽市楽座の奨励に象徴されるように、土地を耕す農業だけでなく、モノを動かす商業も重視していました。
五代にわたって栄えてきた朝倉家からすれば、尾張・美濃を制し、急成長を見せる信長は、一種の成り上がり者にも見えたかもしれません。

「義景は信長に対して得体の知れない者がやってくる恐怖とともにある種の軽蔑のようなものがあったようにも思えますし、そのあたりも意識して演じました」(鶴見さん)
義景が格下と見下している間に、信長は急速に勢力を拡大し、最後には一気呵成に朝倉家を滅ぼしました。義景は、決して無能な暗君ではありませんでしたが、「太平の世の優れた経営者」ではあっても「激動の時代の革命児」にはなれなかったといえます。
名門朝倉家の当主として一乗谷を拠点に栄華を極めた朝倉義景は、信長に追われ、福井県大野市で自刃しました。雪に覆われた「朝倉義景墓所」は、哀しさを包み込むかのように、白く静まり返っていました。
一乗谷と義景墓所を訪ねた鶴見さんは「どうしても来たい場所だったので、当時の人たちのぬくもりのようなものを感じ取れて心が満たされました」と感無量の様子でした。

「義景という武将は、信長のように領土を拡大するのではなく、理想郷である一乗谷を完成形に近づけたかったのではないかと私は思います。時代が合ってさえいれば、朝倉の文化は日本中に広まったでしょうね」(鶴見さん)
更新:03月17日 00:05