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戦力温存のため出撃を控えていた日本陸軍 東京大空襲から原爆投下に至るまで

2026年06月08日 公開

水島吉隆(近現代史研究家)

原爆投下に至るまで

太平洋戦争中の昭和20年(1945)2月、米軍は焼夷弾を用いた無差別空襲を開始し、東京をはじめとする大都市への攻撃を重ねていく。それを食い止めるべく、日本陸海軍の防空隊も果敢に挑んでいくが...。敗色濃厚となった中で、彼らはいかに戦ったのか。原爆投下に至るまでの戦いに迫る。

※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです

 

東京大空襲後も続く大都市への空襲

米軍は東京大空襲後も多数のB-29で大都市への焼夷弾無差別空襲を続けた。昭和20年(1945)3月12日には名古屋、13日に大阪、17日に神戸へ大空襲を実施し、大都市の機能が壊滅するまで空襲を重ねた。
3月26日には、地下陣地で粘り強く戦っていた硫黄島の守備隊が玉砕。米軍は硫黄島を護衛戦闘機P-51の発進基地として、P-51とB-29による戦爆連合で日本を襲った。

また、米軍は5月から関門海峡などへ頻繁に機雷を投下し、海上交通の封鎖に出た。日本は食糧と燃料の輸入が滞り、航空隊の練習すら満足に行なえなくなった。人材の払底も深刻で、徴兵で熟練工がいなくなった工場では飛行機の計器を間違えるなど、初歩的なミスが頻発した。

陸軍では2月以降、「決号作戦」の名で本土決戦の準備を進めていた。「決号作戦」は、来航する敵の上陸軍を国家の全戦力を展開して迎え撃ち、各種特攻攻撃で洋上および水際で撃破しようというものである。

4月には、陸軍は航空総軍のもとに実践、訓練、生産を一本化した。航空総軍の最終目標は本土決戦時に敵の輸送船団へ全機特攻をかける総力自爆である。戦力温存のために徹底した隠蔽をはかり、防空戦闘にむやみに出撃しないよう定められた。

東京への大空襲は4月、5月も続けられたが、5月25日には海軍の302空が果敢な防空戦を繰り広げた。302空は「月光」の生みの親である小園安名中佐率いる防空戦闘隊だ。

「月光」8機、「銀河」3機、「彗星」8機、零夜戦7機、あわせて26機が発進。高射砲からの味方撃ちを恐れずに、照空灯に照らし出されたB-29の後ろ下方から斜銃の20ミリ弾を撃ち込み、B-29を十六機撃墜した。この日、陸軍部隊によるものと合わせて26機を撃墜、100機に損害を与えた。

また、米軍は機動部隊の艦載機で飛行場や港湾施設、鉄道操車場などへの攻撃も重ねた。艦載機に対する防空戦で特筆すべき戦果を挙げたのは、源田実大佐が指揮する松山基地の第343海軍航空隊である。

3月19日、米機動部隊の艦載機が中国地方に来襲した。前日に機動部隊が南九州に襲来したとの報を受けていた源田司令は、19日に必ず呉軍港方面に攻撃を仕掛けてくるはずだと予測して、局地戦闘機「紫電改」に燃料と弾薬を搭載して待ち構えていた。

「紫電改」は自動的にフラップが出入りして翼の有効面積を調整する空戦フラップを備えていて、格闘戦に強かった。
偵察隊の「彩雲」が敵機動部隊を発見すると、43機の「紫電改」と11機の「紫電」が発進。戦闘機隊は呉軍港方面に向かうグラマンの編隊と巴戦を展開した。敵味方入り乱れての激戦となり、「紫電改」は20ミリ機銃で次々と敵機を撃ち落としていった。

次から次へと押し寄せるグラマン機に対して、日本軍機は敵機来襲の合間をぬって、基地に降りて補給し、再び飛び立った。この戦闘で343空はグラマンF6F、F4Uなどを50機以上撃墜した。

 

実行されなかった「制号作戦」

大都市を焼き尽くした米軍は、6月中旬から地方の中小都市を標的とした。大本営は防空戦闘を制限していたが、米軍機が我が物顔で日本の上空を飛び続けていては、軍への不信が高まるばかりである。しかしながら、P-51や空母艦載機を相手にしていると戦力の激減が目に見えているため、6月下旬、B-29に限って撃墜を目指すこととした。

防空戦力を一元化した航空総軍は得られる限りの情報をもとに、全戦闘機を用いてB-29に対する集中邀撃を目指す「制号作戦」を準備した。だが、日本軍には敵機の侵入を把握する警戒網や、それを知らせる情報伝達網が整備されていなかった。そのため戦力を集中させることすら難しかった。

また、照空灯が不足していたため、夜間に飛来するB-29を捕捉することも困難だった。日本の夜間戦闘機には機上レーダーが装備されていないため、照空灯がなければどうしようもないのだ。

こうした迎撃体制のなか、米軍は占領した沖縄や空母から戦爆連合を続々と昼間攻撃に飛び立たせた。小型機との戦闘を避ける方針の日本軍は、地上で自軍の戦闘機を退避させたり隠蔽することに終始した。夜間戦闘に備えて待機する余裕すらなく、「制号作戦」は実行されずに終わった。

日本軍戦闘機の最後の本格的な空戦は、7月25日、本土決戦に備えて知覧から滋賀県八日市に後退した飛行第244戦隊によるものだった。戦隊長の小林照彦少佐は出撃が禁止されているにもかかわらず、「迎撃ではなく訓練」として、飛来したF6Fの一群と迎撃戦を展開した。この戦闘で2人を失ったが、12機(日本側記録)を撃墜した。

 

原爆投下と終戦

陸海軍では打倒B-29を期待して、新型機の開発が急がれた。期待のロケット戦闘機「秋水」は6月に試作機が完成したが、試作の段階で終戦を迎えた。ジェット戦闘機の「火龍」(陸軍)、「橘花」(海軍)なども製作されたが、実戦には間に合わなかった。

8月に入ると、6日に広島、9日に長崎と立て続けに原子爆弾が落とされた。海軍は次なる原爆投下を阻止しようと、「B-29が単機で侵入した場合は、体当たりで即時撃墜せよ」と、戦闘機隊に命令を伝えた。

また、次は東京だという情報もあり、夜間の投弾を防ぐために、飛行第53戦隊では1時間ごとの交代で、二式複座戦闘機「屠龍」4機が終夜警戒飛行を行なった。

8月13日にはB-29邀撃部隊として海軍で最も精強を誇った第302航空隊が、爆装機による機動部隊攻撃を決意した。「月光」8機、「銀河」6機、「彗星」5機に香取基地の「天山」4機が加わって夜間発進したが、ほとんどの機が敵機動部隊を見つけることすらできなかった。逆にF6Fに追われて散り散りになって帰還し、「銀河」2機と「彗星」1機が未帰還となった。

8月15日にも空襲は行なわれた。米機動部隊の艦載機約250機が関東地方に来襲した。

この日の正午前、三重県鈴鹿基地や愛知県挙母基地では、死を覚悟した隊員たちがまさに出撃しようとしていた。正午に天皇から放送があるということで「発進待て」の命令を受けた隊員たちは、指揮所の前で玉音放送を聞いた。どうやら戦争が終わったのだとわかると、隊員の列からは堪え切れない嗚咽が漏れた。

太平洋戦争開戦前、本土防空を担当する陸軍の視線は対ソ戦に向けられていた。太平洋方面におけるアメリカとの戦いは、海軍に一任するという考えだった。ソ連からの空襲の危険性もあったが、それは関東軍が阻止するという算段だった。

また、日本軍は伝統的に守りを軽視する傾向があり、防衛力の強化に強い関心を示さなかった。レーダーや通信網の充実、高性能戦闘機、高性能高射砲の開発を求める意見もあったが、陸軍首脳部は聞き流していた。本格的な本土空襲が始まってから、慌てて防衛に力を入れようとしたが、その時にはすでに時間も余力もなかった。

お粗末な防空体制のなか、防空戦闘隊員たちは必死に奮闘したが、最終的に行なわれたのは特別攻撃隊の大量投入だった。
米軍は京都や札幌など一部の都市を除いて、日本中のほとんどの都市を焼き尽くした。あとは南九州と関東への上陸作戦を敢行するばかりという段階で、日本の無条件降伏によって終戦を迎えた。日本本土空襲による死没者は50万人にのぼる。

プロフィール

水島吉隆(みずしま・よしたか)

近現代史研究家

昭和44年(1969)、神奈川県生まれ。立教大学社会学部卒。出版社勤務、編集プロダクション「文殊社」所属を経て、現在、近現代史を中心に執筆活動を展開。

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