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B-29への体当たり攻撃 震天制空隊の真実

松田十刻(作家)

太平洋戦争中、日本の本土防空戦における最大の脅威は、アメリカ陸軍の大型戦略爆撃機B-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)であった。日本軍は、陸海軍ともに特性のある局地戦闘機を繰りだし、壮絶な戦いをくりひろげた。ここでは、B-29迎撃戦で撃墜王と称される小林照彦(てるひこ)の戦いぶりを通して、本土防空戦の一端を紹介しよう。

※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

生還へ、一縷の望みを託した落下傘

昭和19年(1944)11月、高松の林飛行場で教官をしていた小林照彦大尉は、帝都防衛を担う第一〇飛行師団麾下の飛行第二四四戦隊長に抜擢され、東京・調布飛行場に着任した。このとき24歳。陸軍の飛行戦隊長としては最年少である。 

小林は昭和15年(1940)、陸軍士官学校を卒業。太平洋戦争緒戦の香港作戦に軽爆撃機で参加。その後、茨城県鉾田の飛行学校で襲撃機(対地攻撃機)を習得。三重県の明野陸軍飛行学校で戦闘機教育を受けた。

着任した二四四戦隊には、日本軍では唯一の液冷エンジンを備えた流線形の戦闘機「飛燕」が配備されている。

小林が着任する直前、同師団の各戦隊4機ずつでB-29への体当たり攻撃をする特別攻撃隊が編制されていた。爆弾を抱えての敵艦への特攻と異なり、隊員は一縷の望みを託して落下傘を装着する。

12月3日午後、小林は東京上空において、初めてB-29を迎撃した。

飛燕の上昇限度は高度11000メートル。実際には8000メートルで機動力が著しく落ちるため防弾鋼板を外し、機関砲1門につき300発の弾丸を50発に減らしている。防寒のために着用する電熱被服を使うと電圧が下がって射撃できず、無線電話も不具合を起こすため、電熱なしである。蓄電池は重いため積んでいない。身体は凍え、酸素マスクをしていても頭が朦朧となりかける(のちに酸素発生剤を使用)。

それでも、率先空中指揮を信条とする小林は気力を振り絞り、敵編隊の一番機へ突進した。とたんに正面だけでなく、左右後方のB-29が機銃弾を浴びせてくる。エンジンに被弾し、飛燕は制御不能となる。前部が火炎に包まれ、機体はみるみる降下。小林は風防をスライドして開けると、主翼右側から宙に飛んだ。開傘索を引くと、傘が勢いよく開く...。

基地にもどると、特別攻撃隊の四宮徹中尉、中野松美伍長、板垣政雄伍長がB-29に体当たりしたうえ、生還を果たしていた。

このうち四宮は、爆弾投下中の編隊に突進。右主翼に被弾したが、最後尾機を狙って突っ込み、右主翼外側のエンジンに激突した。搭乗機の左主翼が飛び散り、錐揉み状態で落下したが、幸い途中で機体が安定したことから、片翼飛行で着陸を果たした。

ラジオや新聞各紙は、片翼飛行の四宮中尉を中心に「奇跡の生還」と大々的に報じ、国威発揚につなげた。防衛総司令部総司令官の東久邇稔彦大将により、特別攻撃隊は「震天制空隊(震天隊)」と命名される。

 

生還、そしてまた迎撃戦へ

昭和20年1月27日、小林は甲府上空でB-29 14機の編隊を迎撃し、二番機に体当たりした。愛機は大破し、落下するが、小林は必死に操縦席から脱出し、かろうじて落下傘降下して生還した。

2月に入ると、F6FやF4Uなど敵機動部隊の艦上戦闘機が、東京など大都市に大挙来襲してきた。過酷な空中戦の連続で、陸海軍搭乗員の戦死が相次ぐ。

4月に入ると、マリアナ諸島からのB-29の大編隊に、硫黄島 (3月下旬陥落)から発進した最新鋭の陸軍戦闘機P-51ムスタングが随伴するようになった。P-51は手ごわく、B-29への接近さえ至難の業となる。

4月12日、小林は戦爆連合で来襲した敵機の迎撃に単機で立ち向かった。東京北方でB-29の編隊を捕捉。山梨県の大月付近まで追撃し、1機を撃破する。次の瞬間、護衛のF6Fの猛射を浴び、機体は火だるまになった。

小林は死に物狂いで機外に飛び出し、落下傘降下。落下傘は松の木にひっかかり、身体は灌木に投げ出された。小林は右足に銃創を負って陸軍病院に入院する。が、数日後には帰隊し、迎撃戦に再び加わった。

5月15日、二四四戦隊に第一総軍司令官・杉山元元帥より感状が授与された。個人感状ではなく部隊感状にしてほしいとの小林の希望による。小林は少佐に進級した。

4月下旬、二四四戦隊に、飛燕のエンジンを液冷から空冷に換装した五式戦闘機が配備されるようになった。

小林にとって辛かったのは、5月から鹿児島県の知覧基地で、沖縄への特攻機の護衛を命じられたことである(海軍の特攻基地は鹿屋、串良など)。この間、4月29日には、片翼生還で勇名を馳せた四宮中尉が第一九振武隊特攻隊員として出撃、戦死している。

小林は、滋賀県の八日市で終戦を迎えた。

震天隊によるB-29の撃墜数は73機、撃破数92機(高木晃治、ヘンリー・サカイダ著『B-29対日本陸軍戦闘機』)。小林の敵機撃墜数は12機といわれる。

戦後、小林は民間会社を経て、航空自衛隊に入隊。第一飛行団第一飛行隊長として教官をしていた昭和32年(1957)6月4日、練習機の墜落事故で殉職した。

プロフィール

松田十刻(まつだ・じゅっこく)

作家

昭和30年(1955)、盛岡市生まれ。新聞記者。フリーランス(編集・ライター)などを経て、著述業。

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