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大河ドラマ「豊臣兄弟!」前田利家役・大東駿介が福井へ 秀吉・勝家との絆と“義の男”の足跡

歴史街道編集部

「豊臣兄弟!」で前田利家を演じる大東駿介さんが越前を訪問

前田利家という武将を語る際、「加賀百万石」という華やかなイメージや、織田信長に仕えた「槍の又左」としての勇猛さに目を奪われがちです。しかしその「義」の精神が最も熱く、そして高潔に鍛え上げられたのは、前田家の家督を相続して、信長軍の最前線に立った「越前時代」ではなかったでしょうか。

主君・信長への忠誠、秀吉との友情、そして上司・柴田勝家への恩義。これらの板挟みのなかで、利家はいかにして「男の中の男」としての道を歩んだのでしょうか。大河ドラマ「豊臣兄弟!」で前田利家役を務める俳優・大東駿介さんが、敦賀市の金崎宮(かねがさきぐう)、南越前町の中村家住宅の黒印状、そして五大老の一人として青木重吉に宛てた連署状という三つのテーマをもとに、利家が越前で磨き上げた「義」の足跡をたどりました。

 

金ヶ崎の地獄で見せた近習の矜持

金崎宮を参拝する大東さん。海抜86メートルの月見御殿からは雄大な敦賀湾を見下ろせる金崎宮を参拝する大東さん。海抜86メートルの月見御殿からは雄大な敦賀湾を見下ろせる

最初に訪れたのは敦賀の小高い丘に鎮座する「金崎宮」。穏やかな敦賀湾を見下ろすこの場所は、元亀元年(1570)、織田信長が義弟・浅井長政の裏切りに遭い、天下布武の夢が潰えかけた「金ヶ崎の退き口」の舞台となった金ヶ崎城跡です。尾根続きには天筒山もあり、信長は先に標高が高い天筒山城を攻略して、翌日金ヶ崎城を陥落させました。

当時の利家は、前田家の家督を継いだばかりであり、この戦いに懸ける思いは人一倍、強かったはずです。かつて信長の寵臣を斬り、勘当の憂き目に遭った利家は、桶狭間の戦いや森部の戦いで武功を上げて再び信長に拾い上げてもらい、さらに兄がいるにもかかわらず、信長の後押しで家督を継ぐに至りました。利家の胸の中には、「信長様から受けた恩は死んでも返す」との思いがあったことでしょう。

金崎宮を参拝する大東さん

ところが、金ヶ崎城を攻略したものの、浅井長政の謀反が発覚し、織田軍は一転して窮地に立たされることに。信長は撤退を決断し、木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)らが殿(しんがり)を務め、利家は信長の傍にあったものと考えられます。役割は違えども、藤吉郎と利家はともに信長を守ろうとしたわけで、彼らの絆は深まったものと想像できます。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、殿を名乗り出た藤吉郎の助けになればと、利家が部下を残していく場面が描かれますが、利家という男の義理堅さを思うと、実際にそのようなことがあってもおかしくはないでしょう。

金崎宮を参拝する大東さん

「ドラマでは金ヶ崎に残る決断をした藤吉郎に対して利家は赤母衣衆を託しました。信長に対して真摯に向き合っている藤吉郎に対してライバルといえども率先して手を貸した義の男・利家を私はとても気に入っています」(大東さん)

 

「中村家住宅」の黒印状――統治への目覚め

中村家住宅に残る前田利家の黒印状をみせていただく大東駿介さん

天正3年(1575)、越前一向一揆を平定した信長は、利家を「府中三人衆」の一人として越前府中に配しました。ここから利家は、一騎当千の強者から、民を治める領主へと脱皮していきます。

その統治の片鱗を今に伝えるのが、南越前町(旧河野村)に現存する前田利家の黒印状です。当時、この地は河野浦といって越前府中から最も近い要港で、書状はその河野浦の人々に宛てたものでした。のちにこの地は日本海物流を担う北前船で栄え、その栄華は同地の重要文化財「中村家住宅」からもうかがい知ることができます。

中村家住宅に残る前田利家の黒印状

書状は天正10年(1582)3月、利家が越前府中から能登へ移封された後のものですが、なおも利家が越前の要港を押さえていたことがわかります。

朝倉氏が滅びた後の越前では一向一揆の嵐が吹き荒れ、利家も当初は領地経営に苦心したといいます。利家は算盤を得意とし、財政面にも明るかったとされますが、何とか越前を富ますことで、領民に安寧をもたらそうとしていたのではないでしょうか。

今回、中村家住宅で利家の黒印状をみせていただきましたが、中村家住宅の高い吹抜けの重厚な梁の下で黒印状を目にすると、利家が越前での苦闘を通じて、領主としての統治術を身につけていった姿が浮かび上がってくるようでした。

中村家住宅の高い吹抜け

中村家住宅に残る黒印状は天正10年3月、本能寺の変の3カ月前に書かれたものです。「利家は常に自分が背負っているものの重さを意識しながら、家臣も領民も最後まで裏切らなかった武将であるように思えますね」(大東さん)

 

賤ヶ岳の決断と北庄城への想い

利家が最も過酷な試練に晒されたのは、天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いでした。 信長亡き後、覇権を争う羽柴秀吉と柴田勝家。利家にとって勝家は、越前府中時代に上司として仰ぎ、父のように慕った恩人でした。一方の秀吉は、若い頃から苦楽を共にした「竹馬の友」です。

利家は勝家軍の一員として布陣しながらも、一説には途中で戦線を離脱したとされます。それが事実ならば、武士としては末代までの恥とも取られかねない動きです。しかし、その決断こそが義の人・利家の真骨頂といえるものではないでしょうか。勝家に殉じて前田家を滅ぼすことは、家臣や家族への不義となります。かといって秀吉と共に勝家を討つことは、恩師への不義となるのです。

利家は、越前府中城に引きこもりますが、秀吉と勝家の調停を模索していたのではないでしょうか。結果として勝家は自害しますが、利家は北庄城(現在の福井市)へ向かう秀吉に、勝家の助命を請うために面会したとの逸話があります。こうした逸話が語り継がれるほど、この時、利家が見せた「どちらも裏切りたくない」という人間臭い葛藤こそが、のちに秀吉から全幅の信頼を勝ち取る要因となったのではないでしょうか。

 

五大老の連署状――託された「最後の義」

「五大老連署状」を見る大東駿介さん

今回の旅のラストを飾るのは、利家の死の直前、慶長4年(1598)に発せられた「五大老連署状」。なかでも注目すべきは、越前・北庄城主であった青木重吉に宛てられた北庄の領地宛行の連署状です(5月15日~7月7日迄 福井県立歴史博物館では「『秀吉と越前の武将たち』―新収蔵古文書を中心に」が開催中。連署状も見ることができる)。

五大老の連署状
利家を含む五大老が並んだ書状は珍しく貴重。秀長没後、秀吉が頼れるのは利家しかいなかった。連署状が書かれた2カ月後、利家は亡くなった

死の床にあった秀吉は、幼い秀頼の将来を案じ、利家を秀頼の傅役に指名しました。利家は家康の野心を抑え込む唯一の防波堤として、豊臣政権の重石となります。この連署状は、秀吉亡き後の新体制を整える意味でも重要な公文書でした。

北庄城はかつて利家が敬愛した柴田勝家の本拠であり、利家自身もかつて越前で過ごしたいわば第二の故郷。その地の安堵を約束する連署状であることから、病を押して署名した利家の心中には、並々ならぬ思いがあったはずです。

それは、豊臣政権を守るという「公の義」と、かつての恩師・勝家の地を守るという「私の情」が重なり合った、人生の総決算であったのではないでしょうか。

利家は連署状を発したわずか2カ月後、家康の動きを制しながら、激動の生涯を閉じます。その没後一年で「関ケ原の戦い」が起きたという事実は、利家一人の存在が、どれほど巨大な「重石」となって天下の均衡を保っていたかを逆説的に証明しているかのようです。

金ヶ崎の退き口で見せた「武士としての忠義」、中村家住宅の黒印状に見る「領主としての統治力」、そして青木重吉宛の連署状に込められた「五大老としての責任」。これら三つのキーワードを辿って見えてくるのは、乱世の荒波に翻弄されながらも、自らの心の軸を一度も曲げなかった一人の男の矜持なのではないでしょうか。

越前小丸城から出土した瓦であった(小丸城跡出土文字瓦〈複製〉、福井県立歴史博物館所蔵〈原資料:味真野史跡保存会所蔵〉)

今回、大東さんが何より驚いたのは、越前小丸城から出土した瓦(小丸城跡出土文字瓦〈複製〉、福井県立歴史博物館所蔵〈原資料:味真野史跡保存会所蔵〉)。瓦には、利家が一向一揆勢1,000人を磔にして釜茹でにした事実が刻まれている。つまり、利家への恨みがこめられたものともいえる。「戦国という世は、本当に我々が想像がつかないほど激しい時代であったのですね」(大東さん)

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