
「戦国一の出世頭」として知られる豊臣秀吉。出自のわからない身分から天下人へと昇り詰めた彼の人生は、織田信長との出会いを抜きに語ることはできない。出世の足がかりとして語られる「墨俣一夜城」の真実や、命懸けの「殿(しんがり)」を務めた金ヶ崎の退き口、そして初めて城主となった長浜での画期的な政策など、秀吉躍進の軌跡を『豊臣兄弟!』の時代考証を担当する柴裕之氏が辿ります。
*本稿は柴裕之監修『7つのキーワードでまるわかり コミュ力お化け 豊臣秀吉』(主婦と生活社)より一部抜粋・編集したものです。
天下人として現代に名を残している豊臣秀吉だが、その生涯は織田信長抜きに語ることはできない。下層身分の出身とされ、青年期までの動向もよくわかっていない秀吉の運命は、信長の家臣となって大きく変わった。
秀吉の出自は謎に包まれているが、有力な説を組み合わせると天文6年(1537)2月6日生まれで、両親は元足軽の父・弥右衛門と母・大政所(仲)。幼名(幼少期の名前)は不明である。
秀吉が7歳の頃に弥右衛門が亡くなり、母の再婚相手の筑阿弥と不仲だった秀吉は、家を飛び出して放浪の旅に出た。その旅の中で信長の存在を知り仕官したという。
信長のもとでは草履を用意する小者(雑用係)からのスタートだったが、愛嬌があり機転が利く秀吉はすぐに信長のお気に入りになり、トントン拍子で出世した。敵対勢力のスパイである上島主水(もんど)の正体を暴くために、槍試合を受けて立ったという逸話は創作の可能性が高いが、ときには度胸を武器に成り上がっていったのだろう。秀吉の名が確かな史料に登場するのは、29歳のときである。
信長が斎藤龍興に勝利して美濃を平定し、「天下布武」を掲げた戦いが美濃攻めである。秀吉もこの戦いに参戦し、交通の要衝・墨俣に一晩で城を築いて信長を感心させたという。この「墨俣一夜城」は創作だが、秀吉は砦を守って斎藤軍を撃退する活躍をしたようだ。
こののち信長は室町幕府の将軍・足利義昭に協力するため、当時の首都・京に乗り込む。秀吉も京で政治に関わりながら反対勢力との合戦に出陣した。
そして元亀元年(1570)、反対勢力の1つである越前の朝倉義景との戦いの最中に、信長軍は大ピンチに陥る。同盟相手である北近江の大名・浅井長政が敵に回ったのだ。長政は信長の妹・お市の夫だが、関係の深い朝倉家の味方に付くことを選んだのだ。
挟み撃ちを避けるため、信長は朝倉軍の激しい追撃を覚悟で撤退を決めた。このとき、最も危険な殿(しんがり)を引き受けたのが秀吉だ。秀吉は明智光秀・池田勝正と奮戦し、信長を京都に帰還させた。この「金ヶ崎の退き口」で、秀吉は信長からのさらなる信頼を得る。命をかけた戦いが出世の糸口になったのだ。
浅井長政の裏切りを信長が許すはずはなく、長政は小谷城の戦いで敗れて自刃した。この合戦で長政を孤立させて戦況を有利に運んだ秀吉は、信長から浅井家の旧領を与えられた。
秀吉ははじめ、長政の居城だった小谷城に入ったが、小谷城は険しい山中にあって移動が難しい地形だった。そこで琵琶湖のほとりの水運が活発な今浜に本拠地を移し、ここに新しい城を築く。このとき秀吉は信長の名前から一文字を拝借し、今浜を長浜と改名。城も長浜城と名付けた。長浜城は秀吉が人生ではじめて手に入れた、つまり城主デビューを果たした城なのである。
秀吉は長浜城下にもともとある村を再編成しながら、小谷城周辺の城下町も長浜に移転させるなどして新しい城下町を充実させていった。人口を増やすために年貢(税)を免除するという思い切った政策も行っており、この特権は秀吉が本拠地を長浜から大坂などに移したのちも続けられた。秀吉が長浜に愛着を抱いていたことがうかがえる。この時期と前後して、秀吉は名前を木下藤吉郎から「羽柴秀吉」に改めている。
室町幕府や朝倉・浅井軍を破った信長は、破竹の勢いで天下統一を進めていった。家臣の中でも浅井軍との戦いで長浜城主となった秀吉と、それより早く坂本城主となった明智光秀は、織田家臣団でも群を抜いた出世頭だった。
勢力拡大を狙う信長が次に展開した戦略は、方面軍体制である。これは日本全国の各方面に軍勢を派遣する作戦だ。ここで秀吉は難敵・毛利家が立ちはだかる中国地方の担当に抜てきされる。信長の厚い信頼による人選だ。
また、信長が古参の家臣・佐久間信盛を追放したときに送った手紙に、興味深い記述がある。大坂本願寺との戦いに手こずった信盛を「光秀と秀吉と勝家は立派な武功を上げているのに」と叱っているのだ。秀吉は信長の高評価家臣ランキングに入っていたのである。
岐阜県大垣市、長良川西岸に位置する墨俣は古来の要衝で、かの「墨俣一夜城伝説」の舞台だ。
この伝説は、信長の美濃攻めの時、佐久間・柴田らの重臣が失敗した墨俣での砦の築城を藤吉郎(秀吉)がたった一夜で完成させたというものだ。江戸時代の読本『絵本太閤記』や古文書『武功夜話』に見られる伝説だが、信頼できる史料にも小瀬甫庵の『太閤記』には、一夜城どころか秀吉が墨俣城を築いたという記載はなく、後世の創作とされている。
ただし、当時斎藤家が築いた墨俣城があり、信長軍が攻略し前線基地としたこと(信長死後に流路が変わって廃城)、秀吉が美濃のどこかの砦を守ったこと、さらにこの美濃攻め以降に秀吉が重用されていくことは事実である。
ちなみに“もう1つの一夜城”石垣山城は、小田原攻めの時の豊臣軍の本陣で、『太閤記』などには即席の櫓に紙を貼って一夜で城を築いたと見せかけたとあるが、実際には4万人で80日かけて造られた、関東初の総石垣の城である。
更新:04月16日 00:05