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最後まで負けを認められなかった日本軍...「マリアナ沖海戦」大敗の3つの理由

2021年08月09日 公開
2023年02月22日 更新

戸高一成(呉市海事歴史科学館〔大和ミュージアム〕館長)

戸髙一成

太平洋戦争の最後の決戦といっても過言ではない「マリアナ沖海戦」。日本海軍はなぜ敗れたのか。そしてこの戦いは、その後の日米戦争にどんな影響を与えたのか─。

※本稿は、歴史街道編集部編『日本陸海軍、失敗の研究』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。

 

「アメリカに勝つ」という意識が薄くなっていた

昭和18年(1943)9月30日の御前会議で、「今後採るべき戦争指導の大綱」が定められ、千島からマリアナ諸島、ビルマに至るラインが「絶対国防圏」とされた。

これには、「勝ちにいく」よりも「守らなければならない」という認識が表われている。

実際、昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦以降、勝ち目のない戦闘が続いており、軍部には「アメリカに勝つ」という意識が薄くなっていたと見ることができるだろう。

この「大綱」のもとで、マリアナ諸島のサイパンを中心とする防衛体制を、日本は強化した。

サイパンを押さえていれば、トラック、ラバウルの航空基地を強化することも可能になる。それによって、再び米豪遮断を試みて、ソロモン、オーストラリア方面の戦力を回復・維持する――。

これが実現できれば、米軍の本格的反攻を抑制して、対米戦争を仕切り直せるというわけである。

それとともに、機会を捉えて決戦を行ない、米軍を一撃してから講和に入ることを模索していたと思われる。

一方、アメリカは、トラック、ラバウルのラインを制圧して、米豪が連携できる状況を整え、フィリピンを奪還して拠点とし、日本本土に侵攻することが基本的な戦略だった。

これに加えて、新戦力である長距離爆撃機B-29 を有効に使い、日本を圧迫することも考えられていた。サイパンを足場にすることで、B-29 による日本の本土攻撃が可能になる。それによって、日本を屈服させようとした。

かくして、日米両国の戦略においてはサイパンの攻防が焦点となり、昭和19年(1944)6月、マリアナ沖海戦に至るのである。

 

マリアナ沖海戦は「最後の決戦」だった

ハワイ攻撃でもミッドウェー海戦でも、機動部隊には上位部隊があり、打撃部隊の一つとして使われたにすぎない。機動部隊の打撃力が強かったがために目立ったが、本当の意味で航空兵力を主力とする作戦ではなかった。

しかしマリアナ沖海戦では、小沢治三郎中将率いる第一航空戦隊(大鳳、翔鶴、瑞鶴)を中核とする第一機動艦隊と、角田覚治中将率いる陸上基地の第一航空艦隊を主力に位置づけ、艦船部隊はその支援ないしは後始末を担った。

つまり、敵艦隊を叩くのは飛行機部隊であり、戦艦などの艦船は、その補助と残敵掃討が任務ということになる。

日本海軍は、「航空兵力での決戦」という戦闘モデルに大転換したのである。当時において、考え得る最善の航空兵力の集中を行なったことは、戦術的な意味で一番大きな特徴といえよう。

しかし、日本はマリアナ沖海戦で大敗を喫した。6月19日に始まる航空戦で、アメリカ側に沈没した艦はなく、飛行機の損失も130機程度だったが、日本海軍は空母の大鳳、翔鶴、飛鷹が沈没、さらに500機近い飛行機が失われた。

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