古いタイプの将官たちを大量にリストラし、近代的な教育を受けた人材に置き換える。軍備の国産化を進め、陸軍の下に置かれた海軍の地位を改善する。山本権兵衛の下で日本海軍は発展し、その成果が日露戦争の奇跡的な勝利だった。
「日本の海軍を誰が創ったか」と問われたら、筆頭に挙げるべきは山本権兵衛である。
嘉永5年(1852)、薩摩藩士の家に生まれた権兵衛は、兄とともに薩英戦争、そして戊辰戦争を戦った。このとき、年齢を誤魔化して従軍し、「戦で負傷するなら、弾傷でなく刀傷がいい」と兄弟で話し合ったという。
いかにも侍らしい逸話だが、弾の下、刀の下をくぐった実戦経験で、権兵衛が胆力を養ったことは想像に難くない。
戊辰戦争が終わった明治2年(1869)、権兵衛は西郷隆盛の紹介で勝海舟と会い、海軍軍人としての人生がスタートする。
兵学寮(後の海軍兵学校)で学んだ権兵衛は、ドイツに留学した。当時は生徒の数が少ないため、全員が超エリート教育を受け、かなりの比率で海外留学の機会を与えられたのだ。
海外留学といっても、座学ではない。実際に軍艦に乗り組み、士官扱い、ないしは士官候補生扱いで、航海士、砲術士などに配置されて仕事をするのが中心だった。
権兵衛もドイツの軍艦で実地教育を受けているが、権兵衛から少し後ぐらいまでの人たちは、外国の軍艦の乗組員となることで、「海軍」を肌身で学んだのである。
ちなみに、日清戦争以前の海軍はステイタスが低く、エリートが喜んでいくようなところではなかった。
兵学寮で定員に満たないクラスが生じ、二次募集、三次募集をしたこともあったほどで、一般にイメージされる海軍の華々しさは、日露戦争後に生まれたものだ。
何よりも海軍自体が、日清戦争のときは基本的には陸軍の指揮下に置かれていた。そうしたレベルから、陸軍と並び立つまでに海軍を「成長」させたのが、山本権兵衛なのである。
更新:11月22日 00:05