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西郷従道は日露戦争勝利の殊勲賞? 偉大な兄・隆盛に劣らぬその器量

2017年07月18日 公開
2019年07月02日 更新

7月18日 This Day in History

西郷従道

今日は何の日 明治35年7月18日

西郷どんの弟・従道が没。兄に負けない器量を物語る逸話の数々

明治35年(1902)7月18日、西郷従道が他界しました。西郷隆盛の弟で、器の大きな明治の政治家として知られます。

天保14年(1843)、薩摩藩鹿児島城下の加治屋町に従道は生まれます。通称は信吾。兄・隆盛の15歳年下でした。有名な話ですが、隆盛も従道も実は本名ではありません。隆盛の諱は隆永ですが、本人が不在の時に親友の吉井友実が誤って隆盛で政府に登録してしまったといいます。隆盛は、本当は父親の名前でした。一方、従道は、本当は隆興でしたが、登録する際、リュウコウと言ったところ、なまっていたため政府の役人がジュウドウと聞き間違え、従道になったとか。以後、隆盛も従道も気にせずその名前を使っています。

従道は幕末の頃は尊王攘夷運動に身を投じ、かの寺田屋事件にも従兄弟の大山弥助(巌)とともに加わっていましたが、鎮圧されて謹慎。その後、薩英戦争、戊辰戦争に参加しました。維新後は、ヨーロッパの軍制を視察し、帰国後は兵部権大丞に就任。明治6年(1873)に兄・隆盛が征韓論で下野した際は政府に残り、台湾出兵の指揮を執ります。明治10年(1877)の西南戦争にも加担することなく、政府の留守を預かりました。大久保利通暗殺後は政府における薩摩閥の重鎮的存在となり、参議、陸軍卿、文部卿、農商務卿など要職を歴任します。明治18年(1885)に伊藤博文内閣が発足すると、初代海軍大臣に就任。海軍省官房主事に山本権兵衛を抜擢したのは従道です。

それにしても、従道は愉快なエピソードの多い人物です。いくつかご紹介しましょう。

▼ある時、政府調査局を廃止する問題で伊藤博文が怒り出し、山県有朋が仲裁に入りますが、なかなか収まりません。従道は同席していましたが、黙って伊藤の話を聞いていました。そしてひと通り伊藤が論じ終えると、従道は「えらい困ったことになりましたなあ、あっはっはっ」と笑い始め、伊藤もつられて笑い出し、結局話は済んでしまったとか。

▼山県有朋とヨーロッパに出かけた折、ロシアでアレキサンドル2世に拝謁しました。皇帝が「日本の軍人は、平生何を一番好むか」と尋ねられた従道は、平然と「それはやはり、酒と女でありましょう」と答え、宮廷内を唖然とさせたといいます。

▼政府が地租増税案を出した際、なかなか議会を通らず、反対者を帝国ホテルに集めて伊藤が演説することになりました。その日、遅れて到着した従道は、聴衆の間を、丁寧に礼を繰り返しながら通り、自分の席に至ると、改めて聴衆に向いて深く礼をしました。その姿は壇上の伊藤以上に聴衆の心を動かし、増税案が賛成に向かうきっかけとなったとか。

▼海軍大臣を退いた後のこと。主力艦購入の手付け金を払わなければならないものの予算がなく、海軍大臣の山本権兵衛が従道のもとに相談に訪れました。従道は「こうなった以上、他の予算を流用するしかないだろう。もちろんそれは大変なことだが、日本の将来には代えられない。いざとなったらわしとお前と二人で、二重橋の前で腹を切ろう」と言って、主力艦購入を勧めました。その主力艦こそ、連合艦隊旗艦となる「三笠」でした。

従道は日本海海戦、日露戦争勝利の影の殊勲賞といえるかもしれません。

従道は陸軍から転身した身でありながら、初代海軍大将、海軍元帥に列せられ、日露戦争直前の明治35年に他界しました。享年60。今の日本に、こうした人物がいたら、と想像するのもおもしろいですね。

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