2017年05月15日 公開
2019年04月24日 更新
連合艦隊司令長官・東郷平八郎
明治37年(1904)5月15日、旅順港閉塞作戦において、戦艦八島と初瀬が敵の機雷に接触、2艦ともに沈没しました。虎の子の6隻の戦艦のうち2隻を1日で失うという、連合艦隊にとっては悪夢のような出来事です。
八島は明治30年(1897)にイギリスで竣工した戦艦で12,300t、富士と同型艦です。初瀬は明治34年(1901)に同じくイギリスで竣工、15,000tで、敷島、朝日、三笠の同型艦でした。どちらも連合艦隊の主力戦艦です。二艦とも、旅順港外の老鉄山沖で触雷。特に初瀬は2度目の触雷で火薬庫に誘爆したことが致命的で、爆沈。500人近い犠牲者を出しました。戦死者の一人、第一戦隊先任参謀の塚本善五郎少佐は、秋山真之らと同期です。彼の娘は後に、芥川龍之介と結婚しました。
ロシアの旅順艦隊を前に、さらにバルチック艦隊とも戦わねばならない連合艦隊が、1/3の戦艦を失ってしまって、果たして勝てるのか? その疑問は全将兵が抱いたことでしょう。海軍大臣の山本権兵衛は豪気なことで知られますが、この2戦艦沈没の報せを受けると、食べ物がのどを通らなくなったといわれます。
八島、初瀬の艦長は、慙愧にたえぬ面持ちで旗艦三笠の東郷平八郎司令長官のもとに報告に訪れます。連合艦隊司令部も重苦しい雰囲気に包まれる中、二人の艦長は涙ながらに詫びました。ところがそれを聞いていた東郷は、怒りも嘆きもしません。二人が報告を終えると、平静と変わらぬ声で「みな、ご苦労だった」と声をかけ、テーブルの上の菓子を勧めてねぎらいました。「これから二人分働けばいい」と言ったともいいます。その様子に島村速雄参謀長以下、連合艦隊の幕僚たちも驚き、感服したのは当然であったでしょう。 さらに東郷は、いつもと全く変わらぬ様子で、三笠の後甲板をゆっくりと散歩しました。その姿に、士官はもとより不安にかられていた水兵までが、「わが海軍は、まだ大丈夫だ」と安心し、再び士気を高めていくのです。
後年、東郷はこの時のことを「その前に敵も戦艦を失っていたから(マカロフ司令官の戦死)、まだ何とかなるとは思ったが、きつかった」と言葉少なに語っています。 こうした苦難、厳しい状況に直面した時こそ、リーダーの真価が問われます。2戦艦を失うことがどれだけ深刻な事態であるかは、誰にでもわかることでした。 それを最も痛感していたのはもちろん東郷ですが、自分の不安を一切面に出しません。出したところで状況は変わるものでなく、むしろ泰然として振る舞うことで将兵が浮き足立つことを防いだのです。
これはマニュアルなどで覚えるものではなく、武士として将の振る舞い方はどうあるべきかが東郷の体に叩き込まれていたのでしょう。そして、むしろこの結果、連合艦隊の結束は以前にも増したのではなかったかと想像します。
リーダーとはある意味、孤独なものです。その本質は古来変わるものではないと感じます。迷いが生じたり、苦しい時に、何を信じることができるか。東郷の場合は幼少より培った武士道に則り、自分の職責をどう果たすかであったかのように思います。 その姿は、現代にも大いに参考になる部分があると感じます。
更新:11月24日 00:05