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東郷平八郎のそれから

2015年05月30日 公開
2022年12月07日 更新

『歴史街道』編集部

日本海海戦

昭和9年(1934)5月30日、東郷平八郎が没しました。日本海海戦を勝利に導いた連合艦隊司令長官として知られます。今回は晩年の東郷についてご紹介してみます。

明治38年(1905)5月27日、日本海海戦においてロシア・バルチック艦隊に完全勝利を収めた東郷は、イギリスで「東洋のネルソン」と称されるなど、世界的にその名が知られました。

日本海海戦後、東郷は自邸に東京で暮らしていた小栗忠順〈ただまさ〉の遺族を招いています。小栗上野介忠順といえば、幕末の勘定奉行、外国奉行として知られ、遣米使節目付として渡米し、帰国後、幕府の資金で横須賀に製鉄所(後の横須賀海軍工廠)を建設した人物です。

戊辰戦争が始まると、薩長に対して徹底抗戦を主張したため、徳川慶喜から退けられ、上州権田村に引き上げたところ、新政府軍に捕らえられ、無理やり処刑されています。それほど、薩長が怖れた切れ者でした。

東郷は若き薩摩藩士として戊辰戦争で戦った幕臣に敬愛の念を抱くこと少なくなく、小栗の汚名を晴らしたいという気持ちを持っていたといいます。

そして明治45年(1912)、小栗の遺族を招くと、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗殿のお陰であることが大きい」と礼を述べ、自ら仁義禮智信としたためた書を贈りました。

その2年後の大正3年(1914)、東郷は東宮御学問所総裁に就任、大正10年まで皇太子裕仁親王(昭和天皇)の教育に尽くすことになります。その任命は、東郷を敬愛する大正天皇たっての希望であったと伝わります。

以後、東郷は努めて諸学科の授業を参観し、皇太子が地方に行啓される際には、常に随従しました。大正3年に総裁就任した際、東郷はすでに68歳。決して身体的に楽な勤めではなかったはずですが、黙々と献身的に職務に尽くしています。

そんな東郷について、御学問所で倫理のご進講を務めた杉浦重剛〈しげたか〉は次のように語っています。

「現下の日本において、東郷さんほど御学問所総裁の適任者はあるまい。それは英雄だとか勇将だとかいう点ではない。ただその終始一貫の誠実さからだ」

「東郷さんの眼を見ると、いわゆる炯々として人の肺腑を貫くような気がする。ああいう眼をもつ人はおおむね鋭悍(鋭く猛々しい)で、ややもすると相手に恐怖を感ぜしむるものだ。が、東郷さんと話をしていると、重厚で謙遜でもう親しみのみが感ぜられる。どうも眼と感じが相応しないのは不思議でならないが、よく考えてみるとそれは修養の結果と思われる」

実際、東郷は激しい気性の持ち主でしたが、それを長年の修養で温厚かつ無口な風貌をまとったようです。これは生来の切れ者でありながら、修養でとぼけた雰囲気を身にまとうようになった大山巌と共通するものかもしれません。

大正7年(1918)の夏のある日。皇太子が新宿御苑を散策されていると、通路に大きなミミズが日光にさらされて苦しんでいました。おつきの一人が同僚に、「地中にいればいいものを、外に出るからこうなるのだ」と私語を交わします。

それを耳にした皇太子は、ミミズをつかんでそっと木陰に放ちました。後にこれを聞いた東郷は、「さても崇〈たか〉き御心かな。御仁慈が小虫にまで及ぶとは」と大いに喜びました。

昭和3年(1928)、昭和天皇即位の御大礼に参列、感慨はひとしおであったようです。かつて御学問所で倫理を進講していた杉浦はすでに他界していましたが、東郷は「杉浦さんにも拝ませてやりたかった。どんなに感激したことか。しかし彼の魂はご皇室を守護し奉るだろう」と語っています。

晩年、東郷は海軍内の艦隊派に担がれて条約派から腫れもの扱いされたという話も伝わりますが、これについては戦後の条約派を是とするスタンスで書かれたものの評価であり、当時の状勢と、明治以来、東郷が抱いていた価値観を冷静に見る必要があるように感じます。

東郷が常々語っていたのは「油断しないこと」「訓練の大切さ」でした。

自宅で病の床についた東郷は、近所の小学校から聞こえる子供たちの歌声を聞くのを楽しみにしていたといいます。享年88。東郷邸跡は現在、東郷公園となっており、玄関前にあった石の獅子像が今も残っています(辰)

写真:東郷平八郎(国立国会図書館蔵)と東郷公園の獅子石像

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