2015年05月20日 公開
2022年12月07日 更新
下瀬雅允(国立国会図書館蔵)
明治38年(1905)の日本海海戦において、明治連合艦隊がバルチック艦隊相手を撃滅できた背景には、様々な要因があった。そのひとつが、バルチック艦隊を恐れさせた「下瀬火薬」と「伊集院信管」であった。
日本海海戦では、ロシア・バルチック艦隊は主として、敵艦の装甲を貫く徹甲弾、および貫いたのちに艦内で爆発する徹甲榴弾を用いていた。
それに対して、連合艦隊が用いたのは、命中した瞬間に激しい熱を発して、敵の甲板上のものをすぐさま焼き尽くす独自開発の鍛鋼榴弾であった。言わずもがな、命中した時の威力はロシア艦隊のそれに勝る。
この砲弾の実現を可能にしたものこそ、「下瀬火薬」と「伊集院信管」である。
「下瀬火薬」は、金属に触れると激しく反応し、大量の熱を発する「ピクリン酸」を主原料とした。このピクリン酸を砲弾の炸薬に使うことに最初に成功したのは、フランス人のE・テュルパン(1885年)。彼は、繊細なピクリン酸に、鈍感剤を配合することで、実用化に至ったという。
一方、「下瀬火薬」を開発した海軍技手・下瀬雅允(しもせ・まさちか)は、砲弾の内壁に漆を塗り、さらに炸薬を紙筒の中に入れることで、より純度の高いピクリン酸を炸薬とすることに成功した。明治26年(1893)、日清戦争よりも前のことである。
伊集院五郎(国立国会図書館蔵)
しかし、下瀬火薬の誕生だけで、喜ぶわけにはいかない。この火薬を効果的に用いるためには、「超即働信管」、すなわち、すこしの衝撃でも、敏感に作動する信管が必要不可欠だった(※信管とは、弾薬を作動させるための火薬類を内蔵する装置のこと)。
そこで採用されたのが、海軍少将・伊集院五郎(いじゅういん・ごろう)が開発した「伊集院信管」(明治33年〈1900〉)であった。
伊集院信管の鋭敏さはまさしく抜群で、砲弾が海面に落下したり、マストに張られた綱に当たったりしただけでも爆発したという。
練度と士気に裏打ちされた命中精度のみならず、この信管と火薬の効果によって、ロシア・バルチック艦隊は連合艦隊の砲撃により猛火に包まれ、瞬く間に戦力を失ったのであった。
しかし、高性能な信管と火薬は、危険と裏腹でもあった。砲弾が砲身の中で破裂する事故が起きやすく、日露戦争でもしばしば起きていたと報告されている。
それでも――日本海軍は、その危険を冒してでも、敵の撃滅に賭けた。敵を撃滅しなければ、どの道、国は亡びるという事を分かっていたからであろう。開発者と用兵側の覚悟のほどが窺える。
各々が、それぞれの立場でベストを尽くしたからこそ、はじめて「完全勝利」は為し得たのであった。
更新:11月23日 00:05