2017年05月27日 公開
2022年06月28日 更新
明治38年(1905)5月27日、日本海海戦が起こりました。日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍のバルチック艦隊との戦いです。
NHKのドラマにもなりましたが、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』の影響で、連合艦隊は参謀秋山真之考案の丁字戦法と、東郷平八郎司令長官の東郷ターンの決断で、劇的な完全勝利を収めたと思われています。しかし現実は、丁字戦法は行なわれていませんし、たび重なるアクシデントを乗り越えての、死闘であったことが見えてきています。
昭和40年代に、『機密明治三十七八年海戦史』(通称「極秘戦史」、全150巻)が初めて研究者に公開され、それによって海戦の全貌が明らかになりました。この「極秘戦史」は海軍が内部資料用に作成したもので、現在は国内に防衛研究所所蔵の1セットしかありません。海軍は一般向けには『明治三十七八年海戦史』(通称「公刊戦史」、全4巻)を発行しており、「極秘戦史」の機密部分を削除した、差しさわりのない内容となっています。しかしここにも丁字戦法は記されておらず、丁字のイメージは海戦後に書かれた小笠原長生らによる読み物の影響のようです。司馬氏が目を通したのは時期的に「公刊戦史」までで、「極秘戦史」を知らなかった以上、『坂の上の雲』の記述はやむを得ないものでした。
日本海海戦の半年前に起きた、ロシア旅順艦隊との黄海海戦で、連合艦隊は丁字戦法を試しています。丁字戦法とは単縦陣(艦隊を縦一列にすること)で敵艦隊の進路を横切り、「丁」字を描くかたちで攻撃することで、我が方は全艦前後の主砲を使えますが、敵は前方の主砲しか使えないという利点をねらったものです。しかし、敵に戦闘意欲がなく、逃げてしまえばこの戦法は全く意味をなさず、黄海海戦ではまさにそれで失敗しました。連合艦隊はバルチック艦隊に対する「丁字戦法」をこの時点で諦め、代わりの策を秋山真之が中心になって考案します。それが「連繋機雷」でした。
これは複数の機雷をロープでつなぎ、敵艦隊の前方に快速の小型艦艇で散布するもので、敵艦の艦首にロープが引っかかると、たぐりよせられた機雷が舷側に衝突して爆発するというものでした。連合艦隊は「連携機雷」を最重要機密とし、きたる日本海海戦にこれを用い、敵艦にあらかじめ損害を与えた上で艦隊決戦に臨むことを決します。
ところが…… 5月27日早朝、「本日天気晴朗なれども浪高し」。これは自軍が有利であることを大本営に伝えたのではなく、機雷を敷設する小型艦艇が、波が高くて出撃できず、連繋機雷を諦めるという悲痛な思いを伝えたものでした。かくして連合艦隊は、一切の秘策を持たず、正面から戦うべく出撃するのです。
さらに齟齬が起こります。東郷はバルチック艦隊に向けて進み、敵艦隊の西で、ある程度距離をとって反転し、並航戦に持ち込む予定でした。ところが敵艦隊の位置の報告に計測ミスがあり、連合艦隊はバルチック艦隊の正面に出てしまうのです。この時、危険を避けて敵の西に転針(面舵)すれば、敵に逃げられる恐れがあります。しかし東に転針(取り舵)すれば、敵の進路を押さえる代わりに連合艦隊は方向転換を終えるまで、敵艦隊の集中砲撃を浴びます。その時の東郷の決断が「取り舵」でした。「たとえ三笠(東郷乗艦の旗艦)を沈められようとも、バルチック艦隊は絶対に逃さない」という気迫の決断だったのです。
数々のアクシデントに見舞われながら、それを覆して完全勝利を導いたのが、この捨て身の「東郷ターン」であったことを、私たちは知っておくべきでしょう。
更新:11月21日 00:05