2015年05月27日 公開
2022年12月07日 更新
日露戦争は、まさしく国民が一丸となって戦った戦争であった。ある日、戦地に赴く兵が馬車に乗ると、御者から「お国のために運賃は要らない」と告げられた。理由を訊くと、「皆がお役に立とうとしているのに、自分は貧しくて寄附すら出来ない。せめて乗せた兵隊さんからお代を頂かないのは当然のことだ」と語ったというのだ。
当時の新聞には、こうした逸話が多く載せられている。明治人がいかに日本の行く末を案じていたかが窺えよう。とりわけ見逃すことができないのが、バルチック艦隊が迫っている様子を日本海軍に知らせた、海外在住の庶民の存在である。
1904年(明治37)10月15日、バルト海リバウ港を出港したバルチック艦隊が、アフリカ東岸、フランス軍政下のマダガスカル島に寄港したのは同年12月29日のことだ。実は、その様子を見ていた日本人がいた。
赤崎伝三郎、天草出身の32歳である。
赤崎は、家業に失敗した赤崎は借金を返済するため、出稼ぎのマダガスカルでホテルを経営していた。彼はすわ一大事と、すぐさま戦艦の種類や隻数、さらには艦隊が積み込んだ石炭や水、食糧の量を極秘に調査し、急ぎインドのボンベイ日本領事館に電報を打った。
赤崎はかなり大胆な諜報活動を行なったようで、ロシア軍の中には「昨日貿易商人に装ひたる一人の日本人間諜、スワロフに乗込みたり」(『露艦隊来航秘録』)と訝(いぶか)る者もいた。まさしく命懸けの行動だったが、赤崎を衝き動かしたのは、異郷にあっても変わらぬ愛国心に他ならなかったろう。
外国の娼館に勤める「からゆきさん」もまた、バルチック艦隊の情報を本国に伝えていた。赤崎と同じマダガスカルにいた「からゆきさん」たちは、黒煙を吐いて日本に向かう艦隊の姿を見ると、
「このままでは、お国が滅ぼされる…!」
と叫びながら、日本の商船を訪ねて情報を知らせた。また、シンガポールでは現地の日本領事館に駆け込み、貯金や着物、簪を「お国のためにお使いください」と差し出した「からゆきさん」もいたという。
特筆したいのは、彼女たちが行なったであろう、アンチ・プロパガンダ(逆情報)だ。
バルチック艦隊は3月16日にマダガスカルを出港するが、この時、ロシア軍には一つの不穏な情報が寄せられていた。すなわち、「日本の巡洋艦がインド洋で待ち伏せている」というものである。
どのような経緯で、ロシア軍がこうした情報を入手したのかは詳(つまび)らかではない。しかし当時、赤崎以外の日本人でマダガスカルにいたのは「からゆきさん」くらいであったことを思うと、彼女たちが懇ろになったロシア兵に吹聴したと考えるのが自然ではないか。
もちろん、日本海軍の待ち伏せはなかった。しかし結果として、バルチック艦隊はこの情報に大いに翻弄される。
史料によれば、彼らは数カ月間の航海において「日本の巡洋艦はいつ現われるのか」「闇にまぎれて、水雷艇が襲ってくるのでは」と疑心暗鬼になり、砲をいつでも撃てるように警戒配備を敷いていたのだ。5月27日に対馬沖に到った時には、ロシア兵の多くは心身とともに疲労困憊であり、とても一大決戦を行なえる状態ではなかったと思われる。
更新:11月24日 00:05