山本権兵衛は昔ながらの侍タイプの人間だった。その特徴をひと言で表現すれば、「私心がない」ということになる。
幕末は薩摩の殿様のために働き、明治になったら切り替えて日本のために働く。その点で非常にシンプルなのだが、それだけにやることは徹底している。
典型的なのは、日清戦争前の人員整理だろう。
幕末維新の功績によって地位を得ただけで、近代戦では役に立たない将官、佐官、尉官クラスを百人近く、権兵衛は予備役に編入した。
これは海軍の将来を考えて行なった処置であり、藩閥にとらわれない公平なものだった。しかし、当然のことながら、クビ切りの対象になった人たちから強い不満が沸き起こった。
当時の権兵衛は、海軍省主事にすぎなかった。したがって、大した権限をもっていない。
いかに能力があっても、こうした立場で尋常ならざる大リストラを実行することは難しいはずだが、それを実現できたのは、海軍大臣・西郷従道がバックにいて、権兵衛に自由にやらせたからである。要するに、海軍大臣の〝お墨付き〟を、権兵衛は得ていたのだ。
海軍内に生じた反発に対して、西郷は権兵衛を支持して揺るがなかった。権兵衛の能力を信じて全面的に任せた西郷は、功績の半分を担ったといえる。
もっとも、さすがの西郷も、この大リストラには躊躇して、「大丈夫なのか」と尋ねたことがあった。
これに対して、「兵学寮、兵学校で鍛えた新時代の将校が、大勢いるから大丈夫だ」と、権兵衛は答えたという。西郷は、太っ腹の彼が二の足を踏むようなことであっても、権兵衛の思うようにやらせたわけだ。
西郷でなかったら、不安に押し潰されて「やり過ぎだから、クビを切るのは半分ぐらいにしておけ」などと、日和っただろう。
権兵衛は抜群の能力をもっていたけれど、権限を有する西郷が追認して初めて、あの大リストラはなし得た。その意味で、二人はセットだったのである。
日清戦争が終わった3年後の明治31年(1898)、山本権兵衛は海軍大臣に就任した。
直面する最大の課題は、ロシアとの戦争の準備である。
まず、戦備を充実させなければならないが、ここで権兵衛の慧眼が発揮されたと思うのは、「後方の戦備」に着目したことだ。
戦争の最中に兵器の輸入が途絶えて戦えない、ということでは困る。したがって、「軍備はできる限り国産にする」という意識をもって、海軍工廠の整備に力を入れたのである。
その象徴といえるのが呉海軍工廠だ。ここは製鉄設備を有し、鉄鉱石と石炭をもってくれば、大砲、軍艦になって出ていくという大工場である。
そして、対露緊張が高まった時期には、カロリーが高くて煙が少ないとされる、イギリスのカージフ炭の採用を決めて大量に備蓄している。また、大砲が故障したり壊れたりすることを想定し、砲身の予備をイギリスから買い入れてもいる。
さらに、開戦直前になって「軍艦が足りない」と判断すると、南米のアルゼンチンがイタリアに発注していた、完成直前の軍艦2隻を買い取った。これが「日進」と「春日」である。
日露戦争時、旅順港封鎖の際に触雷して戦艦2隻を失ったが、「日進」と「春日」は見事にその穴を埋めた。
これらは一部にすぎないが、「ありとあらゆる準備を整えた」といえる。ここで思い浮かぶのは日露戦争時の連合艦隊参謀・秋山真之の言葉だ。
「すでに勝った戦争を戦うのが戦争だ」
日露戦争はまさしく、外交、財政、軍備、すべてにおいて「勝った状況」の下で開戦したのだ。
日英同盟は「勝った状況」をつくるための方策であり、日露戦争における最大の勝因といってもいいだろう。
政府レベルでも、金子堅太郎をアメリカに送って反露親日キャンペーンを展開し、ヨーロッパでは戦費の国債募集を行なって、いずれも成功を収めた。
海軍大臣である権兵衛もまた、自分の職掌において、「勝った状況」をつくろうとした。そして、「これなら勝てる」と目処が立ったところで、開戦に賛成した。
これに比べて太平洋戦争は、外交で負け、財政で負けと、負けた挙げ句に始めている。「すでに負けた戦争」を戦ったら、いかに兵隊が勇敢に戦っても勝つことはできない。
更新:11月22日 00:05