第二次世界大戦を左右した「航空戦力」。世界で最初に機動部隊を創設した日本は、「航空思想」において最先端を走っていた。その力は、真珠湾攻撃で存分に発揮されたものの、やがて日本軍は苦境に陥っていく。その要因は何だったのか。
※本稿は『歴史街道』2021年7月号の特集「太平洋戦争 空の決戦」から一部抜粋・編集したものです
およそ20世紀に入ってから始まった、飛行機の開発。
飛行機の軍事利用が促進されたのは、第一次世界大戦のときである。
開戦の時点では偵察以外の用途がなく、敵国の飛行機とすれ違うときに、パイロットが手を振り合ったりするなど、牧歌的な一面も見られた。しかし、「飛行機が戦力として使えるのではないか」という発想が生まれたことで、状況が変わる。
最初は飛行機からレンガを投げる程度の「攻撃力」だったが、機関銃を積むようになると、飛行機の破壊力が急速に伸びて、大戦中期以降は「大空中戦時代」に入った。
といっても、飛行機はあくまで偵察や一部の支援兵力として位置づけられ、主力になるとは誰も考えていなかった。
飛行機が戦いの主力として使われるようになるのは、第二次世界大戦からだ。
海軍の場合、戦前に想定されていた飛行機の主な役割は、艦隊の護衛である。
海戦時に、こちらの位置を知られると遠距離砲戦で不利だから、味方の観測機を護衛し、敵の観測機を撃墜するための飛行機を艦隊にもたせるというものだった。
日本海軍にしても、戦艦や巡洋艦に載せた陸上戦闘機を滑走台から飛ばし、燃料が切れたら海上に落として、パイロットは拾うという方法が研究されていた。
次第に「飛行機を使い捨ての消耗品として扱うのは不合理」との意見が出て、航空母艦が使われるようになるが、あくまで飛行機は補助戦力として捉えられていて、世界の海軍国はどこも同じ考え方だった。
それを大きく変えたのは、太平洋戦争の真珠湾攻撃である。航空戦力だけで戦艦を沈められることが明らかになり、それ以降、最終決戦兵力は飛行機にシフトしていく。
世界の軍事史におけるターニングポイントは、日本の飛行機によるといっていいかもしれない。
航空時代の黎明期における日本の動きはどうだったか。
日露戦争後の明治42年(1909)、日本海軍は「臨時軍用気球研究会」を設置して、気球及び飛行機の調査研究を行なった。ここから日本の歩みが始まる。
当時、世界で気球の実用化が視野に入っていたが、飛行機はようやく飛べるようになったレベルで、まだ発達途上の技術だった。
そのことを思えば、明治45年(1912)に「臨時軍用気球研究会」を「航空術研究委員会」と改め、飛行機の研究に力を入れ始めた日本海軍は、先見性をもっていたといえる。
明治末期から海軍は航空分野に進出していったが、国内に産業基盤がないため、飛行機は輸入に頼らざるを得なかった。
大正元年(1912)11月、横浜沖観艦式に参加した2機の水上機は、いずれも外国製(フランス製のファルマンとアメリカ製のカーチス)だった。
それでも、軍用機を採用した時期としてはかなり早く、世界の海軍国の中で、日本はさほど遅れていたわけではない。
大正3年(1914)に始まった第一次世界大戦では、連合国の一員としてドイツに宣戦し、9月には水上機母艦・若宮丸を使って、飛行偵察などの航空作戦を行なった。これが日本海軍における航空戦の第一歩である。
このときの経験から、飛行機が近代戦に有効な兵器であることが認識され、大正5年(1916)発布の海軍航空隊令で、海軍航空の正式な組織が発足する。
また、第一次世界大戦の観戦武官として渡欧した秋山真之は、イギリスで水上機母艦などの建造を見て、「将来は、日本でも飛行機を発着させうる船が必要だ」と考え、そのことを応用戦術の教科書に記した。それを参考にしたと思われるが、水上機母艦として計画されていた鳳翔は設計を見直され、純粋な航空母艦が建造される。
これによって、日本は世界最初の航空母艦を保有する国となった。日本海軍が航空に重きを置いていた証といってもいい。
その後、小沢治三郎などが「戦闘機だけでなく、爆撃機や雷撃機も載せられるだろう」と意見を出したことで、空母を攻撃力として使う研究が行なわれ、その延長上に空母を艦隊の中心的打撃力とする機動部隊が生まれる。
第二次世界大戦が進行する過程で、航空機が決戦兵力だと認識され始めたが、最初に機動部隊を創設した日本海軍は、その時点で世界の「航空思想」のトップに躍り出たといって過言ではないだろう。
更新:12月10日 00:05