2018年12月07日 公開
2022年08月09日 更新
太平洋戦争の開戦劈頭、日本海軍は、真珠湾攻撃によりアメリカの戦艦複数に大打撃を与え、また、マレー沖海戦で、イギリス海軍の誇る最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスを撃沈するという大戦果を挙げた。これらはいずれも、航空機による戦果であった。
連合艦隊司令長官であった山本五十六は、早くから航空機の可能性に着目し航空隊の練成に努めてきたという人であった。しかし、海軍首脳たちの大部分は、「最後は艦隊決戦で勝敗が決まる」と考えていた。そのような、戦略の画期にあって、戦の主役である山本五十六のいくつかの言動から、「山本長官は戦艦無用論者だ」という話が広がった。
第29回「海軍反省会」では、その真偽について、黛治夫氏の話を口火に、議論が展開された。
※本稿は、戸髙一成編『[証言録]海軍反省会3』(PHP研究所)より、一部を抜粋編集したものです。本書は極力「話し手の口調」をそのまま書き取って収録しています。
黛 私はあの、矢牧(章・兵46)さんがこの前も質問されたが、お前はあの、どうして連合艦隊長官辺りに意見を言わなかったか。
表現は違いますけどだいたいそういう。
私は、私のような鈍才でも気がつくんだから、エリートの先輩は当然軍令部で集めた情報等は当然知っておられると、こう思った。
それで角田(求士・兵55)君が書いた戦史叢書の『ハワイ作戦』(1967年、朝雲新聞社)というのを見て、初めて、
「ははあ、山本長官は昭和15年、16年、私が傍らにいる時は知らなかったが、戦艦無用論だったんだなあ」
なんて思った。
要するにね、鈍感ていうか、情報も。部下の一巡洋艦の副長が、司令長官の作戦の本当の本音を聞くなんていうわけにもいかんし、どうも。
(中略)
久原 今のお話で山本長官が戦艦無用論者であったという、この事に関してですが。
私もずっとあの艦隊におりまして、鉄砲関係を少ししとったんですけども。
山本長官は14年、15年、16年にかけて、艦隊の訓練をよく知っておられて、砲戦の研究会なんかもよく出られて、別に戦艦を無用だというような、こういう意見は全然我々は評議した事ないです。
昭和16年の開戦前に、私は陸奥の発令所長しとったんですけれども、最後の戦闘射撃で、非常に立派な成績を収めた事があります。
それでその時に長官が研究会の時に、日本の陸奥と長門が非常に良い成績を収めたと、これでいくとアメリカの同型艦の三杯は、だいたいこの二杯で受け持ってくれると。そこに戦闘の戦勝の端緒があるんだと、大いにやれと。こういうような意見を、こう、研究会の席上で言われました。
それから、その、戦艦無用論を本当におっしゃって、心からそう思っておられたんならですね、ハワイの空襲でね、ハワイの空襲でもって戦艦だけをやってるわけですね。航空母艦はいなかったわけですね。
だから、戦艦、無用な戦艦をやったとこで何にもならんという事ならね、あそこら辺りでね、もうちょっとこう、本当に戦艦がダメだと、こう思っておられたんならですね、もうちょっとやりようがあったと思うんですが。
ダメな戦艦をやった所でね、効果はないんですよ。
久保田 私はね、艦政本部におりましてね、大和、武蔵の設計にタッチしておったんです。
その頃の話だが、山本さんが(基本計画主任の)福田啓二(造船大佐)の肩を叩いてね、
「お前そんな事をやってるが、そんなもん要らなくなるよ」
と、こう言われたというエピソードがある。
その後また長官のお考えも少し変わられたと思いますが、どうですか。
久原 あの時はね、ちょうど山本さんはね、海軍次官だったわけでしょ。
久保田 いや、航空本部長の時だ。
久原 航空本部長から今度は海軍次官になりましたがね。
あるいは本当にその戦艦がダメだという事ならね、そこで海軍次官としてね、抑えるべきですよ。そういう措置は一つも取っておられない。
まあ、航空本部長の時に、福田さんの肩を叩かれたという事はよく本に出ております。
野元 あの、『文春』にだれだったか、ちょっと名前忘れたが、良い意見を書いておるわけです。
それは航空部隊がね、航空の幹部が水交社に集まって戦艦無用論を唱え出したらね、そしたら、それが首脳に分かって、それで軍令部総長がそんな事をやってるやつはクビだと言う。宮様の総長(伏見宮博恭王)がね。
そんな事を言ったんで、その研究会は解散になったという事、書いてありますね。ご覧になったかと思いますが。
まあ、そういう事もあってね、山本さんの本当のご意見が、どういうように言ったかという事、非常に良い研究テーマだと思うんですが。
更新:11月21日 00:05