2018年12月05日 公開
2022年08月09日 更新
現在の真珠湾
1941年12月8日、山本五十六大将の率いる日本海軍連合艦隊は、ハワイ、オアフ島の真珠湾米海軍基地を空襲し、太平洋戦争の火蓋を切った。当時の海軍戦力の主力であった戦艦に大打撃を与えたこの作戦は、日本側の志気を大いに高めた。しかし、反面では、この攻撃がアメリカ側の参戦気運をあおる結果となり、後日、作戦としての是否が問われるものとなった。「海軍反省会」においても、真珠湾攻撃については何度も議論されている。今回は、それが初めて、まとまって議論された、第14回の内容の一部を取り上げる。海軍中堅幹部であった参加者たちが、松田千秋氏の発表に触発されて、複雑な心中を吐露して行く。
※本稿は、戸髙一成編『[証言録]海軍反省会2』(PHP研究所)より)一部を抜粋編集したものです。本書は極力「話し手の口調」をそのまま書き取って収録しています。
野元 じゃあ、だんだんご意見も多々おありと思いますが、後からご質問はいただく事にして、次の松田君のお話に移りたいんですが。
その前にちょっと私がこの間ある本で読んだのには、これは松田君と関係があるんだ。
日本がパールハーバーを攻撃したと言ったら、チャーチルが、「この戦争は勝った」と言ったというんだね。
チャーチルがそう言った事が本当ならば、松田君の作戦計画がよかったんじゃないかという事が言えるわけだね。
そんなような事も含めて一つ松田さんのお話を伺いたいと思うんです。
松田 私は分隊長時代、暇でしようがないから、よく戦争を研究した。
その当時は欧州戦史の訳がなくて、原文で確かに勉強したんですよ。私だけ欧州戦争をやって勉強したけど、原文で分からないと、イギリス大使に聞きながら勉強したんですよ。
その当時、バイウォーター(Hector Bywater)という男の『パシフィック・ウォー』(「THE GREAT PACIFIC WAR 1925」)という、これも英語で書いてある本を読んだ。
それからアメリカに私が先に行ったんですけど、内地から旅行者を呼んで、それでアナポリスの海軍兵学校を見学に行った。
それからアメリカの学校の統率者はうっかりしているんだ。私がいるというのを知っていたか知らなかったか知らないが、その時の照準演習で長門の関係資料を出しちゃった。アメリカもその当時ですから、昭和6〜7年、この末に日米戦争はもう避け難いというような考えだったんじゃないですか。
それからもう一つは、これは情報関係の色々な努力によってアメリカの作戦計画みたいなのが手に入っていた。構想図まで入っていて、これはよく雑誌に載っています。
グアムから沖縄に一つ、それからいわゆるリングフォーメーションで日本の潜水艦や当時の攻撃を避けながら、沖縄辺りに来る。ここでちゃんと分かっている、向こうの手は。それで日米戦争も避けられない。
そういうような考えで私は軍令部の作戦課に昭和4年までいました。
それからその当時、これは頭にはっきり残ってないけれども、軍縮、海軍の軍備制限条約がされたと。
それで私は、中川(浩・兵42)君がアメリカから帰って、作戦課の下にいるようになった。半年間通ったかな。
その間、私は潜水艦の代表をやるんだと。その当時まではまだ、私も私らの先輩の作戦課の人も、やっぱり砲戦が主である。欧州戦でヒトラーも航空戦力が非常に良い時ですが。それから潜水艦、それから航空機、これで十分に力を入れた計画があります。私の一番初めに第一の素案といっていい。
(中略)
その後、昭和15年の夏頃、欧米出張を命じられまして、一人で船に乗ってドイツに。
そして、その後に出来た総力戦という言葉で、総力戦はその前の国力戦というような言葉でやっていたのが、総力戦という言葉を使いますと、総力戦の見地からドイツ、イタリーは、どうなっているのかという状況判断を、現地の方の話を聞いて、平たく言えば、ドイツはやっぱり総力戦ではかなわないだろうと。武力戦で勝った、フランスは破れた。勝ったけど、総力戦では怪しいなというような感じがしました。
そして、帰りましたらすぐ総力戦研究所という、これは恐らくみなさんご存じない人が多いんじゃないかと思う。
内閣直属で総力戦という、総力戦というのは言葉はおかしいけれど総力戦。
これは当時、日本海軍、東条英機(士17)、この人が日本が勝つためにどうするかという知恵を考えろという意味で、陸軍が主で海軍はそれに同意して、そして内閣直属の研究員。
それで陸軍の飯村穣(士21)という陸大の校長が異動に。陸軍として珍しいような非常に博識な人だと。そうしたら偶然に私と飯村所長と気が合いまして、総力戦研究はこのように出来ました。(後略)
更新:11月21日 00:05