大正元年にフランス、アメリカから機体を輸入したことは前述したが、当時は欧米のエンジニアを招聘するなど、「教わる立場」が続いていた。やがて機材を輸入してライセンス生産を行なった日本は、昭和5年(1930)頃から外国機を参考に、いちから設計・製造を手がけ始める。
そして昭和10年(1935)頃には、オリジナルの国産機を開発できるレベルに至った。
昭和12年(1937)に試作が始まり、昭和15五年(1940)に制式採用された零式艦上戦闘機(零戦)は日本の独自開発の成果と見ていい。
軍艦の建造は、艦政本部が中央で仕切り、役所である海軍工廠が建造を担う。いわば一つのピラミッドによる中央集権的なシステムで行なわれたが、飛行機は異なった。
軍の研究施設で技術的な研究はするが、基本的には民間メーカーに開発・生産を任せて、「こういうものを作れ」と発注するシステムだった。
メーカーでは、東京帝国大学工学部の出身者などが社内で教育を受け、一流の技術者が揃っていたが、発注する側の航空行政官はその道一筋のプロではない。
彼らは外国のカタログデータを元に、「これの航続距離を2倍にしろ」などと高性能を求める傾向があり、無理なレベルを要求して、技術者を困らせることが少なくなかった。
太平洋戦争における航空行政の問題点として、次期戦闘機の開発の遅さも挙げられるだろう。
本来ならば零戦の制式採用が決まった瞬間に、次期戦闘機の開発を始めるのが普通である。しかし海軍は先延ばしにして、開発チームは他の仕事を割り振られている。
昭和15年にスタートしていれば、昭和18年(1943)頃には零戦の後継機にあたる烈風が前線に出てきてもおかしくない。しかし、その開発が遅れたために、何度も細かい手直しを施して、零戦を使い続けることになった。
性能がよすぎたことで、満身創痍の状態になって終戦まで働かされたあたりに、零戦の悲劇的な側面があるが、そうなった最大の原因は生産計画における読みの甘さにある。
太平洋戦争が始まってから海軍が開発を始めた飛行機で、戦争中に使うことができたのは強風を手直しした紫電と紫電改、彩雲、東海などの数機種で、ほとんどが間に合っていない。これは技術陣の責任ではなく、航空政策の過ちと見るべきである。
本来、戦備は平時に準備し、戦時は新鋭機の設計試作などに過大な時間と能力を注ぐことは望ましくない。生産現場の能率を落としてはいけないからだ。
太平洋戦争中の日本の航空政策は、目先の対応に追われて混乱したまま終戦を迎えたといっていい。
当時の日本が置かれた状況下で、技術者は最善を尽くした。しかし、「どのような性能を飛行機に求めるか」という軍側の思想に一貫性がなく、その時の願望に任せた要求で技術者を困惑させ、彼らの能力を十分に生かすことができなかった。
それらはひとえに、軍の指導に問題があったというより他にない。
作戦指導における大きな問題は、他国に先駆けて航空戦力の使い方に目覚めた日本海軍が、「航空重視」にとどまり、「航空中心」への転換で後れを取ったことだ。
航空中心とした第一機動艦隊を編制して決戦を挑んだのは、日米開戦から2年半後の昭和19年(1944)、マリアナ沖海戦である。しかし、この頃すでに日米の航空戦力の格差は大きく、日本は一方的な敗北を喫した。
さらには、「国家総力戦における航空戦」という視点に欠けるところがあった。
航空兵力の本質は量産能力にあり、兵士の小銃のように迅速に生産する能力が求められる。極端なことをいえば、日本が一機つくる間にアメリカは百機つくることができるほど、国力に差があった。生産競争で国力の大きい方に勝てるはずがない。
日本軍は、技術的、生産的な努力の果てに、太平洋戦争緒戦では航空兵力を駆使して、驚異的な戦果を生んだ。しかし、次第にそれは「生産戦」ともいうべき国力の戦いとなり、日本は敗れるべくして敗れたといえよう。
搭乗員、飛行機、機動部隊のレベルにおいては、ピーク時は日本海軍が世界最強だったことは事実だ。しかし、それを上手に運用できず、上の失敗を下の人が尻拭いをするような形で、太平洋戦争は終わった。
十分な訓練を受け、十分な能力をもった人間が現場にいて、個々の機体はそれなりの能力を備えたものがあったのに、太平洋戦争で破滅的な結末を迎えたのは、「使う能力」が甚だしく劣っていたことが根本的な原因だろう。
太平洋戦争から教訓を考えるならば、「高い技術を生かすには、より高く、広い視野に基づいた運用能力がなければならない」ということになるかもしれない。
更新:11月24日 00:05