2017年06月19日 公開
2022年07月07日 更新
昭和19年(1944)6月19日から20日にかけて、マリアナ沖海戦が起こりました。日米機動部隊が激突した最後の戦いであり、日本海軍はこの海戦によって事実上、空母部隊で敵艦隊に挑む戦力を喪失することになります。
米軍の北上から起きたマリアナ沖海戦は、日本海軍にとって負けることの許されない決戦でした。 また陸軍も、サイパン、グアム、テニアンなどから成るマリアナ諸島の防衛を、「絶対国防圏」と位置づけていました。というのも、もしマリアナ諸島が失陥すれば、ほぼ日本全土が米軍のB29の攻撃圏に入ることになり、本土は熾烈な空襲にさらされることになるからです。 陸軍はサイパン、グアムを要塞化し、防備を整えますが、何といっても防衛の成否は海軍が米機動部隊を撃退できるかにかかっていました。 そしてその大任にあたったのが、第一機動艦隊司令長官の小沢治三郎中将だったのです。
小沢は真珠湾攻撃の数年前から、空母を集め、統一指揮のもとに集中して航空攻撃をかける独創的な戦法を主唱しており、いわば機動部隊の生みの親ともいえる存在でした。しかし開戦時には南遣艦隊司令長官を務め、機動部隊には名を連ねてはいません。小沢がようやく空母部隊の指揮を執る立場となるのは、マリアナ沖海戦の半年前の昭和19年3月。すでに熟練パイロットの多数が失われ、空母の数においても米軍に水をあけられてからでした。
劣勢の中で、最後の決戦・マリアナ沖海戦の指揮を執ることになった小沢は、9隻の空母を投入。さらに世界最強の戦艦、大和、武蔵の二隻も戦列に加わります。 一方、アメリカ海軍は15隻の空母を投入、戦いは航空決戦となりました。 この時、小沢が執った戦法としてよく知られるのが、「アウトレンジ」です。アウトレンジとは本来砲術用語で、敵の砲弾の届かない距離から砲撃できる砲をもって一方的に攻撃することを意味します。機動部隊に置き換えると、敵に勝る航続力を持つ攻撃機を用いることによって、敵の攻撃機が味方機動部隊を攻撃できない距離から敵機動部隊に攻撃をかけ、勝利を得ることを意味しました。
確かに日本海軍機はいずれも航続力の点で優れてはいましたが、しかしそんな虫の良い戦法が通用するのかどうか。 開戦時の熟練パイロット揃いで、戦闘機も敵を凌駕している状況であればともかく、昭和19年時点の練度が十分でないパイロットたちには、いささか荷が重いものでしょう。アウトレンジは小沢が自ら採択した戦法と一般にいわれますが、小沢自身はむしろ「見敵必戦」を重んじる闘将であり、また戦術面からもアウトレンジが困難であることは知っていた可能性が高いともいわれます。しかし日本海軍の体質自体が、アウトレンジ的発想に流れてしまっていました。おそらく参謀たちの立案する作戦も、そうした傾向が強かった可能性があります。
昭和19年6月19日、敵に先んじて機動艦隊から発進する第一次攻撃隊246機、第二次攻撃隊80機、合計326機。これだけの航空兵力であれば、確かにどんな艦隊も壊滅させられるだけの威力があるはずでした。しかし、 結果は悲惨でした。アメリカ軍の発達したレーダーに攻撃隊はすべて探知され、艦隊に接近する日本軍機には、VT信管を備えた砲弾が迎撃します。 VT信管とは15m以内に目標を電波が捉えれば、信管が自動的に作動、命中しなくても命中同然の被害を敵に与えることができるものでした。これによって日本海軍始まって以来の大航空攻撃隊のことごとくが、満足に敵を見ることもなくほとんど撃墜されてしまったのです。
さらにアメリカ軍の空襲と潜水艦の攻撃により、旗艦の空母大鳳、翔鶴、飛鷹が沈没。損失した航空機は395機。アメリカ側は120機の艦載機を失ったものの、艦艇の被害は小破程度。あまりに一方的な、日本軍の完敗でした。 言葉でいうのは簡単ですが、奮戦の末に一方的な結果となった現場の将兵たちにすれば、やるかたない思いであったことでしょう。 小沢は決戦に敗れた責任を取るかたちで、4カ月後のレイテ沖海戦では、囮役を務めることになります。
敗戦の記録は日本人としてつらいものですが、そこには学ぶべき多くの教訓が含まれています。
更新:12月10日 00:05