2017年06月15日 公開
2019年05月29日 更新
昭和17年(1942)6月16日、日本軍によるガダルカナル島上陸が行なわれました。その約2ヵ月後にアメリカ軍の反攻が始まり、ガダルカナル島攻防戦は太平洋戦争の行方を左右する激戦になります。
そもそも太平洋戦争の目的は南方資源の獲得にあり、それを妨げるアメリカ、イギリスを排除することでした。無資源国家の日本は、原油をはじめとする資源が供給されなければ、国家として存続できないからです。そしてアメリカやイギリスと対立することになった原因は、中国にありました。日本としては望まぬ泥沼の日中戦争に終止符を打つためにも、資源の継続的供給は不可欠だったのです。
日本海軍は真珠湾奇襲でアメリカ太平洋艦隊の主力を壊滅させて、南方作戦の脅威を取り除くと、陸軍と協力してマレー、ジャワ、ボルネオなどを制圧、南方資源地帯の確保に成功しました。ところが、ここから先の具体的な戦略がきちんと立てられていなかったのです。戦争の攻勢終末点をどこに置くか、グランドデザインを描かぬままに戦争に突入してしまった観があります。日露戦争との大きな違いでした。
とはいえ超大国アメリカと長期にわたる持久戦に持ち込んでは、日本に勝機のないことは誰の眼にも明らかです。そこで海軍がとった作戦が、早期に真珠湾で撃ち漏らした空母群を壊滅させるべく、アメリカ艦隊を誘い出すことでした。 そのためにもまず敵の第一の反攻拠点になるであろうオーストラリアを孤立させるべく、米豪遮断作戦を立案、昭和17年2月にはニューギニアの東、ニューブリテン島ラバウルに海軍航空隊が進出します。これが後に勇名をはせるラバウル航空隊の始まりでした。
日本は米豪遮断作戦の一環として、ニューギニアのポートモレスビー攻略を企図します。米海軍はこれを阻止しようとし、日米の機動部隊が5月に初めて珊瑚海で衝突します。珊瑚海海戦でした。 日本側は米正規空母1隻を撃沈し、戦術的な勝利は得たものの、ポートモレスビー攻略は断念せざるを得なくなります。 翌6月には、ミッドウェー作戦を実施。ミッドウェー沖で日米機動部隊が再び衝突します。もし太平洋戦争で日本が有利なかたちで講和に持ち込める可能性があったとしたら、この海戦で勝利することであったでしょうが、結果は4隻の正規空母を失う惨敗。 ここで海軍は敵空母群を壊滅させるという当初の作戦目的を果たすことは難しくなり、守勢に転じざるを得なくなります。
そこで敵反攻の正面になることが予想されるソロモン諸島の制空権を固めるべく、ラバウルから1000km以上も東に離れたガダルカナル島に上陸、飛行場建設を始めました。ところが8月7日、日本軍によって建設された飛行場がほぼ完成するタイミングを見計らって、アメリカ軍が一大攻勢に出て、島を攻略。以後、日米両軍の壮絶な死闘が陸海空で演じられることになりました。 ラバウル航空隊が連日片道1000km以上を飛行して、ガ島上空で激しい戦いを展開し、それがために優秀なパイロットが次々と失われる消耗戦に陥ったことはよく知られています。実際、前線部隊に多大な無理を強いて、ガ島を奪還することが戦略的にどれだけの意味があったのか、客観的に考えても疑問符がつきます。むしろ消耗を控えて戦力を充実させ、ラバウルあたりで邀撃する方が、敵に大きな打撃を与えられたのかもしれません。
実はこれについては同盟国のドイツからも、ガ島の攻防で日本軍が貴重な戦力を無駄に消費してしまうのではないかと懸念する声が上がっていました。ドイツとしては日本が太平洋の小島で戦うのではなく、インド洋に進出してイギリス艦隊に痛撃を与えてほしかったのです。そうすればインドの独立も可能となり、青息吐息のイギリスを単独降伏させることもあり得ました。いささかドイツにとって虫の良い話にも思えますが、確かにイギリスが降伏すれば、チャーチルからの強い要請を受けて第二次大戦に参加したアメリカも、日本と戦う意味が見出せないということになったかもしれません。
その可能性の是非はともかく、戦争を始める以上はどこで終わらせるのかを考えていなかったことが、太平洋戦争で数々の悲劇を日本軍にもたらしたといえるでしょう。 しかし一方で、過酷な作戦を強いられながら、前線の将兵は実に敢闘しています。その事実と、彼らの思いもまた、私たちはしっかりと受け止めるべきではないかと思います。
更新:11月22日 00:05