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ラバウル航空隊の主軸!二〇四空かく戦えり

2014年08月04日 公開
2022年11月14日 更新

『歴史街道』編集部

ラバウル

消耗し、内地での再建を余儀なくされた台南空(二五一空)と入れ替わるように、ラバウルに進出したのが第六航空隊、後の第二〇四海軍航空隊である。剛毅な小福田租飛行隊長、人望篤い宮野善治郎分隊長以下、杉田庄一、大原亮治らの猛者揃いの部隊の活躍は、ラバウル航空隊の象徴といっていい。

※本稿は『歴史街道』2014年8月号より一部抜粋・編集したものです。

 

最前線の基地ブインへ

「行く先はラバウルですか!」

小福田租大尉が六空(第六航空隊)の飛行隊長として木更津基地に着任したのは、昭和17年(1942)8月初頭、連合軍がガダルカナル島に反攻を始めた頃である。中支、南支戦線で実戦を経た小福田も、まさかガ島(ガダルカナル島)攻防戦のため着任早々ラバウルに行かされるとは思っていなかった。

8月19日、小福田はじめ六空の熟練搭乗員の乗る18機の零戦が先発隊として、木更津基地を発進。一式陸上攻撃機の誘導を受けて硫黄島、サイパン、トラック島経由で、約1週間かけてラバウルに進出した。

森田千里司令ら六空本隊は、27機の零戟とともに空母瑞鳳でトラックに向かい、10月初めまでに六空のラバウル進出は完了。この六空こそ、後に第二〇四海軍航空隊として勇名を轟かせる精鋭たちである。

ラバウル

当時のラバウルの状況は、台南航空隊と第二航空隊が敵を圧倒する戦果を上げていたが、8月7日よりガ島攻防戦が始まると、ラバウルの戦闘機隊は連日、片道560浬(往復2100キロ)の過酷な長距離進攻を強いられ、先任搭乗員の酒井三郎一飛曹が重傷を負い、また笹井醇一中尉、高塚寅一飛曹長、羽藤一志二飛曹らのエースが次々と命を落としていたのである。

それだけに六空の進出には、大きな期待が寄せられた。ガ島へ長距離進攻する負担を少しでも軽減しようと、海軍がラバウルの東、ソロモン諸島最大の島ブーゲンビル島の東端ブインに急速飛行場を建設し、使用可能となったのは10月7日。

これによってが島への距離は200浬以上短縮され、航続距離の短い新型の零戦三二型でも往復が可能となった。そしてラバウル到着間もない六空が、最前線のブインに進出することになる。

とはいえ密林を切り開いて急造したブインには、ラバウルのように完備した宿舎も病院もなく、周囲は鬱蒼たるジャングル。ラバウルでは、電波探信儀(レーダー)で敵の来襲を1時間前に察知できたが、ブインにはそれもなく、見張り員の肉眼だけが頼りであった。

さらには熱帯マラリアを媒介する蚊や、蝿の大群とも戦わなければならない。特に蝿は会話していると口の中に飛び込んでくるほど多く、油断すると食事にまっ黒く群がる。そんな劣悪な環境下で、男たちは日々戦いに臨んだ。

10月19日、六空戦闘機隊はガ島航空撃滅戦に出撃。第1陣は宮野善次郎大尉指揮の9機、第2陣は川真田勝敏中尉指揮の9機。全機零戦三二型で、その中に後のエース、初陣の大原亮治もいる。

列機の大原に目をかけていた宮野は出撃前、「お前は敵を墜とそうと思うな。絶対に編隊から離れず、俺が宙返りしたらその通りやれ。俺が撃ったら、撃て。すべて訓練と同じだ」と言って肩を叩いた。そしてガ島上空において、大原の目前で2機のF4Fを一撃で落としてみせるのである。

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