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連合艦隊司令長官・山本五十六の死~解読されていた日本軍の暗号

2017年04月18日 公開
2022年08月09日 更新

4月18日 This Day in History

山本五十六

今日は何の日 昭和18年4月18日

海軍甲事件。山本五十六連合艦隊司令長官の乗機がアメリカ軍により撃墜

昭和18年(1943)4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六がブーゲンビル島の上空で米軍機に撃墜され、戦死しました。「海軍甲事件」として知られます。

昭和18年4月14日午前8時過ぎ。オアフ島真珠湾の米太平洋艦隊情報参謀レイトン少佐は、早朝に傍受した日本軍の暗号電報を持って司令長官室に走りました。電報に目を通したニミッツ司令長官は立ち上がると、壁に貼られた大きな地図の前に歩み寄り、レイトンに問いかけます。

「戦闘機で、ガダルカナルからここまで脚が届くかね?」
「陸軍のP38ライトニングであれば、届きます」
「レイトン君。ヤマモトを仕留めてみるか?」

アメリカ軍が傍受した暗号電報からは、4月18日に山本五十六連合艦隊司令長官がバラレ、R(ショートランド)、ブインを視察するため、ラバウルから出発することが解読されていたのです。 とはいえ昔の戦場で大将同士が切り結ぶのであればともかく、近代戦争で相手の最高指揮官を謀殺するための襲撃作戦を実行するというのは、「国同士は戦っていても、敵将兵の個々には憎しみを持たない」とする武士道的な発想とは異質といわざるを得ません。

当時、航空兵力によるソロモン諸島、ニューギニア方面の敵艦隊を攻撃する「い」号作戦をラバウルで指揮していた山本は、作戦終了に伴い、ブイン、バラレ基地に赴いて、部下将兵を激励しようとします。実はそこにはもう一つ、切実な目的がありました。米軍の反攻開始以来、海軍は陸軍に頼み込んで、17軍にガダルカナル奪回のため遠征してもらっています。しかし兵站補給が十分でなく、多数の将兵を戦病死、餓死させる結果となりました。やむを得ず駆逐艦をかき集めて、一万を超える将兵の撤退作戦(ケ号作戦)を成功させはしましたが、山本としては海軍作戦の責任者としてブイン近くにいる17軍司令官百武晴吉中将に面会し、詫びを入れるとともにねぎらわなければ気が済まないという思いがあったのです。

4月18日午前6時。山本長官機と随行機の2機の一式陸上攻撃機は、予定通りラバウルを離陸。几帳面な山本らしく、予定通りの時間と進路で目的地を目指します。待ち伏せする米軍機にとっては格好の標的でした。 7時33分、2機の一式陸攻と6機の護衛の零戦を発見したP38戦闘機16機が襲い掛かります。数で勝る米軍機は一式陸攻に攻撃を集中し、2機の陸攻は間もなく黒煙を上げ、1機はブーゲンビル島のジャングルに、もう1機は海上へと落ちて行きました。 このうち、ジャングルに落ちた機体に山本が乗っていたのです。それが山本の最期でした。

「とったアヒルの中に、孔雀が1羽いたようだ」。標的撃墜の報告を受けて、米軍司令部は快哉を叫んだといいます。 そもそも米軍の待ち伏せを受けたのは、日本海軍が山本の旅程を、更新前の古い乱数表による暗号を使って知らせたため、簡単に解読されてしまったともいわれます。

山本の戦死を知った親友の堀悌吉は、「一将一友を失いしを惜しむのときにあらず。ただ、この人去って、ふたたびこの人なし」と慨嘆しました。 確かに山本立案の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、山本の死によって、ほぼ大勢が決したといえる面があるのかもしれません。

戦時中、山本を憎むことはなはだしかった米軍の将兵たちですが、戦後はその評価をガラリと変えていることが目につきます。J.A.フィールド海軍少佐はこう語っています。

「真珠湾の衝撃は、測り知れないほど強烈だった。しかしアメリカ人が山本一人に憎しみを集中させたのは、それが理由のすべてではない。彼らは知らなかったのだ。 山本は、長期戦になったら、日本はアメリカに勝てないことを知っていた。神州不滅とか、ホワイト・ハウスで講和するとかいう話とは正反対に、かれは敗戦を予期して戦争に臨んだ。 戦後の調査でわかったことや、ホワイト・ハウスで講和すると書かれた山本の手紙の全文などから見ると、ほんとうの山本の姿は異なっていた。アメリカ人が、あれほどにも彼を憎んだことは、まったくの見当違いだった」

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