2026年01月08日 公開

写真:京都の伝統漬物「すぐき」。根の部分は半月切りか銀杏(いちょう)切り、葉はみじん切りにして食することが多い。独特の酸味とうま味は、醤油との相性もよく、茶漬けに添える「香のもの」や酒の肴(さかな)として、愛好するファンが多い〔写真提供:民野摂子さん〕
あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。
長い歴史とともに暮らしのなかで育まれてきた京都の食文化。そのなかで、京料理とともに確固とした地位を確立してきたのが、京漬物である。ことに地域発祥の名産として知られ、土産物の定番ともなっているのが、京の三大漬物と称される「しば漬」「千枚漬」、そして「すぐき」である。
今回、取り上げる「すぐき」は、三大漬物のなかで最も謎が多い漬物といえるかもしれない。というのも、しば漬・千枚漬は、京都以外の地域でも製造されて全国で消費されているが、すぐきは現在も京都市内の上賀茂(かみがも)地域とその周辺でしか生産されておらず、流通量も限られた食品なのである。その事情を探ると、公家文化にもつながる、奥深い逸品であることがわかってきた。
【筆者:兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。
【編者:歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

写真:京野菜の一つで、蕪(かぶら)の仲間である「すぐき菜」〔写真提供:民野摂子さん〕
内陸部に位置する京の都においては、かつて新鮮な海産物を得ることが難しく、日々の食生活において野菜の占める比重が大きかった。これを背景に品質がよい野菜の生産が図られて、京野菜という格別の野菜が生まれることになる。一方で、寺院の精進料理や茶道の懐石料理などを基礎とする京料理の成立に合わせて、京野菜を素材とする「香のもの」漬物が発達する。
京の町では、近郊農家が出向いてきて野菜を直売する「振り売り」が古くから見られ、なかには自家製の漬物を販売する人たちもいた。また、早くから専門の漬物屋も成立していたと考えられている。「ぶぶ漬け」という地域での呼び名も知られる茶漬けは、日常の朝食であって、副菜には季節ごとの野菜を使った多種多様な漬物が添えられてきた。そのように京都の暮らしとともに育まれてきたのが、京漬物なのであった。そして、そのなかで高級な漬物の一つとして位置づけられてきたのが、すぐきである。
すぐきは、漢字で表記すると「酸茎」と書く。蕪(かぶら)の一種である「すぐき菜」という京野菜を素材とし、根部分と葉を一緒に塩漬けして発酵させた漬物で、すぐき漬ともいうが、一般には単にすぐきと呼ばれることのほうが多い。その特徴は、乳酸発酵による酸味とうま味である。漢字表記もこれに由来すると見られ、古くは「すいくき」と呼んだという記録が残る。
実はこのすぐき。その昔は、庶民がおいそれとは口にすることができない食べ物であった。

写真:「あじわい館」の京漬物を紹介するコーナーの「天秤(てんびん)押し」展示。実際に使われているものは、天秤の丸太がもっと長く、先のほうにコンクリートの重石(おもし)が付けられる
すぐき菜は変わった扱いをされる野菜である。漬物のすぐきの素材となるだけで、ほかに転用されることがほとんどない。しかも、漬物のすぐきは、すぐき菜を育てた農家自身が製造も行なっていて、一般的な漬物が野菜を仕入れた漬物業者によって加工されることと一線を画している。漬物の販売業者は、完成品のすぐきを農家から仕入れるのである。
そして、そのすぐき菜の栽培者にしてすぐきの製造者である農家は、京都市北区上賀茂とその周辺にのみ存在している。なぜ、それほどに生産地が限定されてきたのか。その謎の答えは、すぐき菜とすぐき生産の歴史にある。
すぐき菜は、江戸時代初期の慶長年間(1596-1614)に上賀茂神社の社家が屋敷内で育て始めたといい、400年を超える栽培歴があると考えられる。そのことに由来すると思われる「賀茂菜」「屋敷菜」の別名も伝わる。その種子は、猟に出た社家が賀茂河原で自生していた原種を持ち帰ったという説と、宮中からもらい受けたという説があり、定かではない。
栽培の当初からすぐき菜は、漬物のすぐきとして加工され、自家の食用とする以外に、公卿や女官、役所などへの毎年の贈答品として用いられた。その際、「堺重(さかいじゅう)」と呼ばれる、堺産の春慶塗の重箱に入れて届けられたという。
近世中期から後期、上賀茂神社の神職で文化人でもあった賀茂季鷹(かものすえたか)は、江戸の文人・大田南畝(おおたなんぽ)と交流があり、すぐきを進上したことへの南畝からの返礼の狂歌が伝わる。「都よりすいなおんなを給はりて吾妻男のさいにこそすれ」蜀山人(しょくさんじん・南畝の号)。「酸(す)いな御菜(おんな)」が「粋(すい)な女」に掛けられているところに、珍重されていたことが伝わってくる。
近世後期には、すぐき菜の栽培は社家から上賀茂の農家に広まる。しかし、地域の農家に残る文化元年(1804)の社家の口上書には、朱書きで「すぐきはたとえ一本といえども他村へ持出すことを禁ず」と記され、すぐき菜とすぐきの生産が、門外不出の規制のもとにあったことがわかる。当時の農家は、収穫したすぐき菜を上賀茂神社境内の御手洗川で洗ったといい、社家の管理下での製造であったのであろう。近世を通して、すぐきという漬物は、上賀茂神社のもとでのみ造られ、その寄贈だけでしか得られない、希少で価値ある食品であったのである。
そのすぐきが、一般に販売されるようになるのは、明治中期まで時代が下る。きっかけは明治26年(1893)、上賀茂地区の深泥池(みどろがいけ)周辺の農家を焼失させた大火であるという。その復興費捻出のために、地元農家がすぐきを売り出したのが、商品化の端緒とされる。
深泥池の農家は古くから野菜の振り売りに出ていた地域であり、それを担った「上賀茂女(かみがもめ)」で知られた。紺の着物に紺の三幅前掛けを腰にからげ、白い脚絆(きゃはん)・足袋(たび)という大原女や白川女に準ずる衣装で、すぐきを入れた堺重を頭に乗せ、「すーぐーき、いらんかえー」と呼びかけて売ったという。
明治36年(1903)、大阪天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会には、深泥池の農家有志がすぐきをもって出展。第3等賞に入選し、すぐきの存在を世間に広く知らしめた。そうした販路拡大に懸ける農家の尽力と、明治末期から大正時代にかけての鉄道交通の発展によって、大阪・神戸、さらには名古屋・東京へと、すぐきは進出。高級料亭で供されるなど、京漬物の名品としての地位を獲得していくのである。

写真:京の食文化ミュージアム「あじわい館」。京都の食を支える中央卸売市場・京都市中央市場内の京都青果センタービル3階のフロアにある。展示や映像で京の食文化を紹介するほか、民野さんたち「食の語り部」による講演や料理教室なども開催している
すぐきの素材であるすぐき菜は、一般に8月下旬から9月上旬にかけて播種(はしゅ)し、11月下旬から12月中旬に青果を収穫する。種子はすべて、農家が代々自分たちで採取してきたものが使われている。かつては上賀茂と周辺でのみ作付されてきたが、宅地化が進むなかで、市内各地のほか、亀岡市や京丹波町といった市外の農家と契約するなどして栽培地を広げている。
すぐきを製造する農家は、規模の大小を含めて現在は70戸ほど。その農家に集められたすぐき菜は、皮をむき面取りして形を整え、大型の樽(たる)に塩とともに入れて一晩、荒漬けにしたのち、小分けして本漬けを行なう。
その本漬けの樽に掛ける重しには、「天秤押し」という方法が用いられる。長さ3メートルから4メートルの丸太棒の先に重石をくくり付け、梃子(てこ)の作用を使って圧力を掛けるのである。重石の約10倍、300キログラムほどの圧力になるという。ただし、30年ほど前に専用のプレス機が開発され、現在はそれを使用する農家も多い。この強い圧力を掛けての漬け込みを7日から10日間ほど続け、これを1次発酵とする。
すぐき製造の大きな特徴とされるのが、2次発酵を用いることである。本漬けの樽を、40度前後に加温した「室(むろ)」へと移し、ここで重石を載せて1週間ほど置き、乳酸発酵を促すのである。実は、この室での2次発酵が導入されたのは、大正時代初期のこと。歳暮や迎春などの需要に合わせて速成するために考案されたもので、深泥池の農家が炭火を使って加温発酵を最初に始めたといわれる。地元では深泥池大火の際に焼け残った漬け樽のなかで、すぐきの熟成が進んでいたことから思いついたと伝承されている。
室の導入が定着したことで、現在、早いものは11月下旬、主には12月から新物が流通するすぐきは、京都の冬を代表する食品となっている。もっとも、以前はすぐきを樽に漬け込んだまま長く貯蔵し、春から初夏に取り出して食した。この製造法を「時候(じこう)なれ」と呼び、乳酸発酵がより進むことで、酸味が強く、根も葉も鼈甲(べっこう)色のすぐきとなる。明治時代までは一般的であった、この時候なれのすぐきは、いまも一部の農家で製造されている。
「私は京都の出身ではないのですけれど、子どもの頃からすぐきを食べることがあって、当時からたいへん好きでした。時候なれのものも大好きです。すごいなと思うのは、すぐきを漬け込むのに塩以外の調味料を一切使わず、複雑な深い味が出てくることです。初めてそれを知ったときは、えぇっと思ったものです」と語るのは、管理栄養士で野菜ソムリエproの肩書を持つ民野摂子さん。
民野さんは、京の食文化ミュージアム「あじわい館」で「食の語り部」として活動されていて、京漬物にも詳しい。今回の記事は、民野さんの談話と、教えていただいた資料・京都市農業協同組合「京の食文化すぐき調査研究業務報告書(令和7年3月)」を参考にしたものである。
実は、すぐきは強い酸味から京都の人たちの間でも好き嫌いが分かれる食品だと、民野さんは教えてくれる。一方で、製造する農家ごとに味に個性があり、それにファンが付くという一面もあるらしい。すぐきは「通」の漬物ともいえるのかもしれない。
ちなみに、それを広く一般向きに漬物業者がアレンジした商品が、量販店でも見かけるパックになった「刻みすぐき」なのだという。調味料などを加えた製品で、本来のすぐきとは別物といわれることもあるが、トレンドのなかで受け入れられて販路を広げている。
平成5年(1993)、京都パストゥール研究所理事長で医学博士の岸田綱太郎氏が、すぐきから免疫機能を促す作用を持つ植物性乳酸菌の一種「ラブレ菌」を発見。この乳酸菌は生菌のまま腸に届くといい、継続的な摂取での整腸や抗ストレス作用が確認され、すぐきが健康食品として脚光を浴びることになった。
「後継者不足ですぐき農家も減少傾向にあるなか、新たな需要が生まれることで、支援につながれば」と、期待を語る民野さん。自身も需要喚起に向けて、すぐきをそのまま食べるだけではなく、「料理の具」兼「調味料」と位置づけて活用することを提案している。おすすめは、刻んで使ったチャーハンやパスタ・餃子。スライスして合わせたカプレーゼやアボガドとのミルフィーユも美味とか。
「すぐき製造での室の導入に見られるように、京都の食文化は、伝統をただ守るだけではなくて、進取の精神に裏打ちされた新たなアプローチを加えながら、今日に引き継いできたもの」と民野さんはいう。「すぐき農家の皆さんも、それぞれに工夫を重ね、うちのが一番だというプライドを持って生産されています。それはやはり、尊重していきたい文化だなと思います」。
寒くなり始める時期、上賀茂の農家にすぐきの天秤押しの樽が並ぶ。その風景は、京都の冬が来たことを告げる風物詩でもあると、民野さんは話す。すぐきの新物が出回る12月上旬、すぐき農家有志が上賀茂神社に「樽みこし」を担いで奉納する「すぐき道中」が催され、年末の「終(しま)い弘法」「終い天神」では、すぐきを売る出店が人を集める。上賀茂女を引き継いで、すぐきを振り売りする「賀茂のおばさん」も健在である。そこには、新年を心待ちにする町の気分も宿る。すぐきを求めて、年末年始の京都を歩いてみるのも季節の楽しみではなかろうか。
更新:01月10日 00:05