2025年10月30日 公開

写真:箕面滝道に架かる瀧安寺(りゅうあんじ)の瑞雲橋(ずいうんきょう)。右手の建物は、役行者(えんのぎょうじゃ)の御影を収める鳳凰閣(ほうおうかく)。平成30年(2018)の台風によって大破したが、令和3年(2021)に再建された
あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず! 「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。
大阪府北摂の箕面市。その市街地に接する身近な地でありながら、箕面山は、大滝と渓流、そして、新緑から紅葉と季節ごとの彩りに染まるもみじの森が美しい、自然豊かな行楽の地である。大阪府営の箕面公園、明治の森箕面国定公園としても知られる。また、古くから修験道をはじめとした山岳信仰の修行の場とされ、数々の古刹がその歴史を伝えている。
その大滝へと向かう「滝道(たきみち)」沿い、立ち並ぶ土産物店の店頭で目をひくのが、大きな鉄鍋で揚げられている「もみじの天ぷら」である。もみじの葉をその形のまま、甘い小麦の衣をまとわせて揚げた油菓子で、ほかの地域で見かけることはまずない。この珍しい銘菓を製造して100年という老舗に、地域との関わりを尋ねた。
【筆者:兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31 年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9 年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。
【編者:歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991 年に発足。

写真:紅葉の季節の箕面大滝。滝の落差は33メートル。流れ落ちる姿が、穀物を入れて殻などを振り落とす農具「箕(み)」の面に見えることから、この名があり、地域名の起源ともなった〔写真提供:箕面市〕
平安時代後期から和歌に詠まれるなど、古くより知られた景勝地の箕面山・箕面滝だが、近代公園として地域が開発されるのも早かった。まずはその明治時代以降の歴史をたどってみたい。
明治6年(1876)の、公園設置の法制化をうたった太政官布告第16号を受け、大阪府は候補地として住吉などともに箕面山を上申。明治31年(1898)に至って、箕面山の大滝と滝道の一帯が、府営箕面公園となる。明治43年(1910)には、現在の阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の宝塚線と箕面支線が開通し、公園の玄関口として箕面駅が設けられて一気に利便性が高まった。
さらに箕面有馬電気軌道は、旅客誘致を目的に箕面駅開設に合わせて、駅の山手に面積およそ3万坪という当時国内最大規模の動物園を開業。海外からゾウ・ライオン・トラなどを集めるとともに、まだ珍しかった噴水や観覧車を園内に可動させ、舞楽堂でおとぎ芝居を上演するなどした。
翌年には、駅に隣接して公会堂やカフェもオープンし、駅周辺と動物園を会場に「箕面山林こども博覧会」を開催。円形軌道の児童電車や滑り台などの大型遊具、ゾウの曲芸が人気を集め、動物園内では、ラクダやロバに乗っての周遊も楽しめたという。
箕面動物園は大正5年(1916)に閉園するが、以後、箕面駅周辺は住宅地としての開発が図られ、宝塚に移築された公会堂は少女歌劇の会場として活用されている。
一方、箕面公園は、阪神間の都市化と人口増加が進展するなか、自然環境と歴史的景観に親しめる郊外の地として注目され、都市住民の憩いの場となっていく。大正13年(1924)には、そうした動向に応えて公園内の大整備がなされ、登山回遊路や休憩所・広場が新設されている。
昭和29年(1954)、箕面公園一帯が名勝箕面山として文化財保護法による指定を受け、あわせて天然記念物箕面山サル生息地に指定された。昭和42年(1967)には、箕面公園と周辺の山々が明治の森箕面国定公園に指定。
「明治の森」とは、明治百年を記念した自然公園の整備事業で、東京都の高尾山を中心とする高尾国定公園とともに対象となり、二つの公園は東海自然歩道によって結ばれている。平成2年(1990)、日本の滝百選に箕面滝が選ばれてもいる。
江戸時代の寛政10年(1798)刊行の地誌にして観光案内書『摂津名所図会』は、箕面山内の景観と紹介に多数の頁を割く。
一節に「秋の末は三千の樹々錦繡(きんしゅう)の如く...、京師(けいし)浪速(なにわ)の騒人、霜葉(そうよう)を踏んで競い来る」とあり、当時すでに紅葉の名所として知られ、多くの人が訪れたことがわかる。そして、同書に掲載された伝承からは、行楽地だけでない、信仰の地としての箕面の山の姿が見えてくる。
白雉年間(650~654)の昔、大和葛城で修行していた修験道の祖・役行者は、北西の彼方に霊光を見た。それに向かって三鈷(さんこ)を投げると、はるか雲中を飛ぶ。そのあとを追って役行者がたどり着いたのが、箕面の滝であった。忽然(こつぜん)と出現した老翁の導きのままに、水源の洞窟で修行に入ると、龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)が現れて告げる。「行者を待つこと久しかった。この滝地はわが浄土である。弁財天の法を求め、ここに尊像を安置すべし」と。菩薩より数々の秘法を授かった役行者は、霊木をもって弁財天を刻み、社にまつったという。
その弁財天を本尊として今に伝えるのが、現在の滝道沿いにある瀧安寺(りゅうあんじ)である。先の伝承の出典も、同寺に伝わる『箕面寺秘密縁起』と見られる。この寺院は、かつて修行の場として大滝の近くに懸造(かけづくり)の堂宇を構えていたが、文禄5年(1596年)に近畿地方を襲った伏見大地震によって荒廃。江戸時代初期に後水尾天皇の勅命を受けて、霊山の入口といえる現在地に再興された。
弁財天は水の神であり、大滝の化身でもあろう。修験道をはじめとした山岳信仰は、恵みをもたらす水源の山への原始の信仰を起源とするともいう。箕面の滝の上に竜穴があり、旱天(かんてん)のときに村民がここに祈ると必ず雨が降る。そんな記述も『摂津名所図会』にある。
修行を続けた役行者は、箕面山の北側にある天上ヶ岳で入滅したと伝え、標高499メートルの山頂は瀧安寺の奥の院とされ、昇天所の碑と霊廟(れいびょう)がある。
箕面山には、山岳信仰を元とする寺院がほかにも所在する。役行者が大滝で修行中、山が鳴動して光明より老翁の姿で現れたという大聖歓喜天をまつる聖天宮西江寺。奈良時代に摂津国守の子、善仲・善算の兄弟が草庵を置き、彼らに師事した桓武天皇の異母兄・開成(かいじょう)皇子がひらいた道場、弥勒寺(みろくじ)を前身とする、西国三十三所観音霊場第23番札所の勝尾寺(かつおうじ)である。
「聖(ひじり)の住所はどこどこぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる書写の山......南は熊野の那智とかや」。平安時代にはやった都の歌謡では、修行者たちが集う聖地の筆頭に数え上げられている。

写真:店頭でもみじの天ぷらを揚げる「桃太郎」の御主人、奥野さん。秋の繁忙期には、一日に千枚ほども製造するとか
深山を修行の場としただけに役行者ゆかりの地は、紅葉の名所として知られるところが多い。箕面山もその一つだが、興味深いのは、名物のもみじの天ぷらの由来にも、行者との付会が語られることである。役行者が箕面山で修行していた際、滝に映える紅葉の美しさを称え、その葉を灯明に用いていた菜種油で揚げて、訪れた修行者に振る舞ったのが、もみじの天ぷらの始まりという。
そんな話を教えてくれたのは、滝道沿いの店舗「桃太郎」で、もみじの天ぷらを製造販売している御主人・奥野輝夫さんである。店頭には、あわせて扱っている招き猫や梟(ふくろう)などの縁起物の置物や、オリジナルのピンバッチやキーホルダーなどの箕面公園のお土産もたくさん陳列されていてにぎやかである。
「このお店はもともと、明治34年(1901)に開業した峠の茶屋でした。当初は団子などの和菓子を手作りして売っていましたが、100年ほど前、昭和に入る前後のころに、当店の先代が土産物として最初にもみじの天ぷらの製造販売を始めたと、地元の案内でも紹介していただいています」。
製法について尋ねると、もみじの天ぷらには手間暇がかかっていることを教えられた。素材のもみじの葉は、一行寺楓(いちぎょうじかえで)のものを限定して使用。葉が薄く、秋の紅葉時に赤くならず、鮮やかな黄色に染まるという特徴がある。「桃太郎」では自前の畑で栽培している楓を使っていて、黄色くなった葉を収穫して用いているが、青葉だと灰汁が強く、ほかの種類の赤い葉では綺麗な色に仕上がらず、食感もよくないという。
収穫した葉は水洗いしたのちに塩漬けし、1年間寝かせて灰汁(あく)を抜く。そして、揚げる前に塩抜きをして脱水し、水で溶いた小麦粉に砂糖・白胡麻(ごま)を加えた衣をつけ、中温の菜種油で約20分、ゆっくりときつね色になるまで揚げる。店頭で実演しているが、実は揚げたてのものは提供していない。2、3日おいて十分に油を切ったのちに袋詰めして販売し、パリポリとした食感と胡麻の風味が身上である。
「葉が薄く柔らかいので、上手く衣をつけて油に入れないと折れてしまい、きれいな葉の形に揚がりません。慣れないと難しいところです。観光の人出が多い紅葉の時期は、製造が追いつかないほどなのですが、ちょうど新しい葉の収穫時期でもあって、早朝に採りに行くことになるのでたいへんです」
近年、箕面を訪れる海外の人も増えていて、そちらの評判も聞いてみた。「コロナ禍以後は、特に欧米の方が多くなりました。彼らにとっては、木の葉を食べるというのは奇異なことらしくて、以前は恐る恐るという感じでしたが、最近はSNSなどで調べて来られる人も多いようで、箕面に来たら食べてみようということで購入される方が多いのですよ」
そんな野趣も感じさせる、もみじの天ぷらだが、山岳修行とは、山の自然から心身に霊力を得るものともいわれる。そうとすると、この天然由来の調理品もまさにその手段ともいえ、先の役行者創始説も所以(ゆえん)がないともいいがたいのであった。
瀧安寺ではもみじが色づき始める11月7日に、境内の大護摩道場で「採燈大護摩供(さいとうおおごまく)」が催行される。毎年4月15日・7月7日とあわせて3回実施される行事で、参拝者の願いを書き添えた護摩木をたきあげて不動明王に祈り届ける。燃え上がる炎と煙が渦巻くなか、法螺貝(ほらがい)の音が響き渡り、箕面山が修行のパワースポットであったことを改めて感じさせられる。
先立って、山伏姿の行者たちが箕面駅前に集結し、滝道を瀧安寺まで練り歩く「山伏大行列」も行なわれ、こちらも見ものである。もみじの天ぷらをかみしめながらの見物も一興であろうか。

写真:瀧安寺の本堂の弁天堂。寺院境内随所に鳥居が立ち、仏と神を一体としてきた修験道の在り方を伝えている
更新:11月04日 00:05