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秀吉にも愛された日本最古の温泉「有馬」 地域に根付く山椒の味わい

2025年09月03日 公開

兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)

有馬温泉郷
写真:六甲有馬ロープウェーから望む有馬温泉郷。六甲山地北側の紅葉谷を中心に、有名旅館やホテルが点在している

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

日本三古湯、さらに日本三名泉の一つとして称えられてきた温泉の地、兵庫県神戸市有馬。六甲山の山峡にひらかれた関西の奥座敷として、今日も国内外から多く観光客を迎え入れる。この地の名産品としては、古くから知られた有馬筆や有馬籠、さらには温泉にちなむ炭酸煎餅など数多いが、山椒(さんしょう)を使った佃煮(つくだに)も地域の食品として知られ、温泉街の土産物として人気の逸品である。

興味深いのは、山椒を用いた料理を「有馬煮」や「有馬焼」と呼ぶことが、広く定着していることである。有馬の地名が山椒を意味する、その背景を地元に尋ねゆくと、山椒をもって世界に打って出ようというプロジェクトが進行していることを知らされた。

【筆者:兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31 年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9 年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【編者:歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991 年に発足。

 

神代に始まる日本第一の神霊泉

有馬の温泉街を見下ろす愛宕山(あたごやま)に、温泉の守護神である湯泉(とうせん)神社が鎮座する。平安時代の官社一覧『延喜式神名帳』にも、大社として数えられる古社である。

その縁起に温泉発見の伝承がある。はるか昔、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱の神が有馬を訪れたとき、傷ついた三羽のカラスが水たまりで浴しているのを見た。数日後、ふたたびカラスを見ると、傷が癒えている。水たまりと思ったのは温泉であったという。

『日本書紀』に、舒明(じょめい)天皇が舒明3年(631)の9月から12月、孝徳天皇が大化3年(647)の10月から大晦日(おおみそか)まで、行幸して大臣らと滞在したとあり、有馬の湯は飛鳥時代にすでに知られるところであった。ただ、一般の湯治の場として有馬の湯を開いたのは、奈良時代の高僧・行基であるといい、それにまつわる次のような開創伝説が残る。

行基が伊丹の昆陽寺(こやでら)にいたとき、六甲の山中に有馬という温泉があることを知った。病気やけがによく効く温泉だが、荒れ果てて道が閉ざされているという。行基は、その道を切りひらき、傷病に苦しむ人々を温泉で救おうと決心して旅立つ。

山に分け入って進むと、うめき声が聞こえた。見ると、全身をかさぶたと膿(うみ)で覆われた男が力尽きようとしていた。有馬の湯に向かう途中で行き倒れたようだ。行基が食事を与えるなど介抱していると、男は身体の膿に蛆(うじ)がわいているのを舌でなめ取ってほしいと懇願する。

男が苦しむのを見て、行基がそのとおりにすると、突然に男の体が黄金に輝きはじめ、薬師如来へと姿を変えた。如来は行基の慈悲を褒め、衆生を助けるようにと告げて虚空に消えた。有馬温泉を探しあて、道を開拓した行基は、薬師如来像を刻んで堂を建てた。これが現在の温泉街にある温泉寺の起源という。江戸時代にまとめられた絵巻『有馬温泉寺縁起』に描かれた物語である。

これらの伝承がいわんとするのは、有馬温泉は神仏が与えた霊泉であるということであろう。温泉街の高台にある寺社を訪ねると、有馬が湯の恵みと結ばれた信仰の町であったことが感じ取れる。

極楽寺
写真:温泉寺に隣接して建つ極楽寺。阪神・淡路大震災からの復興の際に、境内から豊臣秀吉が設けた「湯山御殿」の遺構が発掘され、「神戸市立太閤の湯殿館」として公開されている

 

歴史の人物に愛され、幾度もの復興を果す

平安時代に入ると、有馬は皇族をはじめとした要人や文人の慰安の地となる。清少納言が『枕草子』のなかで、名湯として有馬の名を挙げたのもこの時代である。しかし、平安後期の承徳元年(1097)、有馬を洪水が襲い、人家を押し流し、温泉は壊滅。以後、長きにわたって有馬の地は放棄されることになる。

平安時代末期、一人の僧が、その荒廃した有馬に入る。名は仁西(にんさい)といい、吉野の寺の住僧であったが、熊野権現を参詣した際に夢告を受け、有馬温泉の再興を託されたという。

仁西は、権現が指示したとおりに蜘蛛(くも)の糸をたどり、さらに途中で出会った老人に山上へと導かれ、投げた木の葉が落ちたところが霊地であると教えられる。その場所を探ると、泉源があり、里人とともに周囲を整え、温泉の復興を果たす。建久2年(1191)のことと伝える。

中世の有馬は、動乱から離れて泰平を維持したとみられ、室町幕府3代将軍・足利義満や本願寺中興の祖・蓮如も湯治で逗留している。五山の禅僧たちも有馬温泉を好んで湯治行について記したが、その一つ、瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の『温泉行記』には、有馬温泉に「湯治養生表目」という指南書が掲げられていたことが書かれている。

近世以降、温泉には効能や利用の注意を示した「湯文(ゆぶみ)」が掲げられるのが常となり、現在も法で定められた掲示に引き継がれているが、その先駆といえよう。

戦国時代に入ると、有馬の町にも戦火が及ぶ。そこから有馬温泉を整備し、発展に向かわせたのが、豊臣秀吉であった。天下人となってのち、秀吉がこの地に滞在すること9度。正室の北政所(きたのまんどころ)の別邸も設けられた。

しかし、文禄5年(1596)、慶長伏見地震によって有馬も被災、さらに温泉の湯温が急上昇して熱湯となる異変が発生する。これに対して秀吉は、翌年より大坂築城の人力と技術を投入。こうして再生された泉源は、昭和戦後に神戸市が再整備するまで機能し続けた。

ただ、秀吉が自身のために築かせた「湯山御殿」は、慶長3年(1598)に秀吉が没したことで、利用されることはなかったという。地元では地域の三恩人として、行基、仁西とともに秀吉も格別の存在として遇されている。

江戸時代に入ると、有馬は幕府直轄地となる。秀吉が再建させた元湯のもと、年々拡大する庶民の旅行ブームを受けて宿や店舗が建ち並び、「有馬千軒」と称される繁栄へと向かうのである。

金の湯の足湯
写真:有馬温泉街にある外湯「金の湯」の軒に設けられた足湯で、町歩きの疲れを癒す。有馬温泉には含鉄塩化物泉の赤湯「金泉」と、炭酸水素塩泉・放射能泉の透明な「銀泉」の二種の湯が湧いていて、金泉の「金の湯」とは別に、銀泉の外湯「銀の湯」もある。

 

有馬の人々に季節を告げた六甲の山椒

特定の食材を用いた日本料理の呼び名に、その食材ゆかりの地域名が付けられる例は少なくない。例えば、小倉煮の「小倉」とは、小豆を食材に取り入れた料理を意味し、品質のよい大納言小豆を周辺で産した京都の小倉山に由来するという。

「有馬」が山椒を用いた料理に冠されるになったのは、明治期に醤油で煮た佃煮「有馬山椒」が土産物として人気があったからという説が有力だが、すでに鎌倉時代から有馬の山椒は香りがよいと知られ、室町時代には湯治客に松茸(まつたけ)と炊いて供されたともいう。

有馬温泉街には、永禄2年(1559)創業という山椒・松茸が名物の佃煮の老舗もあり、実はもっと早くから山椒の代名詞として、有馬の地名が使われていたのかもしれない。

そんな有馬と山椒のかかわりについて、有馬温泉観光協会の会長・金井啓修さんにお話を聞いた。金井さんは、鎌倉時代初期の藤原定家の日記『名月記』に記された湯屋を引き継ぐ、老舗旅館の主であり、この地の山椒に関するプロジェクトの中心メンバーでもある。

「以前は、ゴールデンウィークのころ、六甲の山中に入って、山椒の花を採ってくる地元の人が多くありました。それを大豆と炊くのが、家庭の季節の献立だったのです。顔なじみのお店に行くと、そんな小鉢を出してくれたりする。そういうローカルフードでした」。

有馬では、山椒を採りに行く人それぞれに、秘密にする野生の山椒の木があり、親から子へと所在が伝えられるものでもあったとか。そうした地域文化を背景に、独特の山椒の味わいも根付いた。

山椒は一般に、若芽・雄木の花・雌木の実を食するが、有馬では樹皮も食用とするのである。山椒の木の皮を針のように細く小さく刻み、醤油・酒・みりんなどで煮詰めた佃煮「辛皮(からか)」がそれである。ほんの2.3片を口に入れるだけで舌がしびれ、酒がいくらでも進むという、ほかに例がない珍味である。

そのように山椒と暮らしの結びつきが深い有馬であったが、時代の流れか、近年は山椒を採りに山に入る人も少なくなり、また、商品の素材とするには、収穫量が少ないため、地元で販売される佃煮などにも、他産地の朝倉山椒などが使われているという。

有馬名産の山椒が地域から消えていく。そのことに危機感を持った金井さんは、行動を起こす。

「ちょうど定年退職された地元の方で、祖父の代から山に山椒を採りに行っていたという人がいて、一緒に連れて行ってもらえないかと声を掛けたところ、賛同していただき、また、兵庫県の農業振興の職員さんにも同行してもらうことになりました」。こうして始まったのが、有馬山椒復活プロジェクトである。

三代にわたって花や実を採取してきた、少なくとも樹齢100年ほどのその山椒の木は、六甲山へと向かう道のなかでも険しい、有馬三山の稜線をたどる湯槽谷(ゆぶねだに)の道から外れた山中にあった。

「いわゆるガレ場といわれる石が堆積した斜面に生えていて、根が弱くて踏み固められた地面を嫌い、日当たりと水はけがよいところを好む、山椒の木に適した場所でした。そうした場所が多いのも、六甲山が山椒の自生地である理由なのでしょう」と、金井さんは解説する。

そして、その山椒の木からマッチ棒ほどの穂木(ほぎ)を採取したのが、16年前のことであった。のちに稲荷山にあった別の山椒の木から採った穂木とともに、県の農業技術センターで台木に接ぎ木をし、成長したらそこからさらに穂木を採って接ぎ木をすることを繰り返して、野生を元にした母木を増やしてきた。

その過程で佐賀大学が、ほかの国内産地の山椒とともに遺伝子や実の成分を調べたところ、稲荷山系が在来のものに近い一方、湯槽谷系は独特の品種で、有馬原産の固有種といえることがわかった。その特徴は、朝倉山椒などにはほとんど含まれていない匂い成分を含むことで、より柑橘系の香りが強いという。

これに注目して、金井さんたちのプロジェクトは、湯槽谷系の山椒を中心に母木の量産と栽培を進め、現在は神戸市北区大沢(おおぞ)町の農家、大沢有馬山椒部会の手によって約500本が育てられ、花山椒と実山椒の収穫が行なわれるまでになっている。

「ようやく年間に100キロほどの実が収穫できるようになりました。ただ、山椒の実を粉にするには真空乾燥を用いるのですが、乾燥させると100キロの実が15キロほどになります。本格的な需要に対しては、またまだ少ない収穫量ではあるのですが、これまでの冷凍保存しているストックとあわせて、今年くらいから出荷が可能かと思っているところです」。

今後、地域の産品を知的財産として保護する、農林水産省の地理的表示「GI」の取得を進めたいと金井さんはいう。

また、海外へのアプローチとして、イタリアに本部を置く世界的食品協会であるスローフード・インターナショナルとも交渉を進め、すでに平成29年(2017)に有馬山椒の「アルカ(味の箱船)」への登録を終えている。

アルカとは、地域固有の農水産物や伝統食を守るための制度で「食の世界遺産」ともいわれる。また、将来的には、同協会の「プレシディオ(食の砦)」の認定をめざす。アルカの食品の生産が経済的に成り立つよう、スローフード協会が援助の対象とするもので、その意義を金井さんは語る。

「世界の著名シェフに有馬山椒をPRできることになります。世界にその希少価値をアピールするとともに、産地である有馬という地への関心を広げることができればと願っています」。

小粒でぴりりと辛い山椒の英名は、ジャパニーズ・ペッパー。日本を代表する香辛料として、有馬の山椒が世界の舌をしびれさせる日は近いか。

有馬温泉街
写真:有馬温泉街。坂道にさまざまな土産物店が立ち並び、随所に泉源施設も見ることができる。近年はインバウンドの観光客の姿も多い

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