歴史街道 » 本誌関連記事 » 宇治茶の海外輸出の拠点となった地・木津川市上狛に“茶業の近代史”を見る

宇治茶の海外輸出の拠点となった地・木津川市上狛に“茶業の近代史”を見る

2025年06月04日 公開

兼田由紀夫(フリー編集者)

茶問屋ストリート写真:上狛の福寿園本社に隣接する「茶問屋ストリート」。路地沿いに復元された茶店や茶問屋、資料館を通して茶業の歴史をたどることができる

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

旧山城国にあたる京都府南部、木津川市山城町の上狛(かみこま)地域を、木津川が大きく迂回して流れる。この地には、古くは飛鳥時代に高麗寺(こまでら)が建てられたといい、奈良時代の一時期には恭仁京(くにきょう)が置かれ、その都が廃された跡には山城国分寺が創建された。最近、その食堂院(じきどういん)遺構が発見された。

中世には上狛環濠集落が営まれ、国人の狛(こま)氏がここに館を構えた。そして、江戸時代に入ると、京都と奈良を結ぶ奈良街道と伊賀へとつながる伊賀街道の交点、また木津川岸の上狛浜から水運によって京・大坂にも通じる要衝として、地域の産物の集散地となって発展していく。

その産物とは、当時、周辺で盛んに作られた綿花であり、今回の逸品「山城の宇治茶」であった。特に宇治茶は、神戸の海外への開港以降、主力輸出品として上狛浜から神戸へと船で出荷され、上狛地域は大いに繁栄することになる。そうしたなかで洗練され、近代化されてきた茶業の歴史を、ここを創業の地とする老舗茶問屋にして、現在の日本を代表する製茶企業に尋ねた。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

 

宇治茶──日本の茶の進化とともに

山城茶業之碑写真:上狛のメインストリート、奈良街道沿いに立つ「山城茶業之碑」。平成16年(2004)、地元の茶業組合創立120周年を記念して建てられた。最盛期にはこの地域に130軒の茶問屋が建ち並んだといい、現在も約30軒が営業している

茶を日本に最初にもたらしたのは、奈良時代の遣唐使とみられるが、国内で茶文化が発展する起点は、建久2年(1191)、宋から帰国した栄西禅師が、禅の教えとともに、抹茶とそれを点(た)てて飲用する点茶(てんちゃ)法を伝えたことにある。『喫茶養生記』を著して茶の普及を図った栄西は、鎌倉幕府とも関係が深く、茶を武家にとって身近なものとした。

建永元年(1206)、京都西北の栂尾(とがのお)に高山寺を開創した明恵(みょうえ)上人は、翌年、栄西から贈られた茶の種をもとに栽培に成功。さらに宇治の農民に茶の栽培を勧めた。この茶園が「駒蹄影園(こまのあしかげえん)」として後世に知られ、宇治茶発祥の地となった。

室町時代に入ると、宇治の茶は足利義満をはじめとする将軍家から格別の支持を得て、「宇治七名園」が営まれた。さらに室町時代末期、「侘(わ)び茶」の文化が成立し、茶道の源流となる。そして、その流れを継ぐ千利休らの茶人の要望を受け、宇治の茶はさらに進化を遂げる。一番茶を収穫する前の茶畑に覆いをかけ、その下で葉を育てる「覆下(おおいした)栽培」の開始である。

こうして作られた茶葉を「碾茶(てんちゃ)」といい、鮮やかな濃緑色でうまみの強い抹茶がここから誕生した。天下人の織田信長、豊臣秀吉、さらには徳川将軍家から、この宇治茶は庇護を受け、日本の茶の筆頭としての地位を確立するのである。

 

鮮烈な煎茶の出現と海外への輸出による発展

拝見場写真:復元された茶問屋の一角に設けられた「拝見場」。農家から持ち込まれた荒茶(あらちゃ)を、ここで茶師が品質を確認して値を付けた。また、産地や気候、加工の仕方で異なる品質の荒茶をブレンドする「合組(ごうぐみ)」によって、それぞれの荒茶の良さを引き出して品質を整えるのも、茶師の腕の見せどころであった。この合組は日本茶独特の工程という

しかし、現在の私たちが親しむ煎茶(せんちゃ)の登場は、まだ先の時代のことであった。

江戸時代前期の承応3年(1654)、明末期の中国から隠元(いんげん)禅師が来日。6年後、宇治の地に萬福寺を開創する。このとき隠元は、沸騰させた湯に乾燥した茶葉を淹(い)れて飲む淹茶(えんちゃ)法を伝えた。煎茶の先駆といえるものだが、この茶は黒っぽい茶葉で、湯飲みに注いだ湯の色「水色(すいしょく)」も茶色の中国式の釜炒り茶であったとみられる。

元文3年(1738)、色・香り・味ともに優れた煎茶が開発される。山城国宇治田原で茶栽培を営んでいた永谷宗円(ながたにそうえん)が15年の歳月をかけて完成させたといい、茶葉を蒸し、焙炉(ほいろ)の上で手でもみながら乾燥させる、青製(あおせい)煎茶製法による緑茶である。

この日本独自の製茶法は、宇治製法とも呼ばれ、これによって深緑色の茶葉で、水色も鮮やかな黄緑色の、香り高い茶が実現した。現在、製法こそ近代化したが、私たちが知る煎茶とはこれである。

宗円が江戸での販路を確保して、この煎茶の販売を開始すると、たちまち人気となり、宇治茶の名声は一般のうちにも高まった。そして、その製法は全国の茶の生産地に広がっていった。

このころ、「売茶翁(ばいさおう)」と呼ばれた禅僧の高遊外(こうゆうがい)が京都市中の路上で煎茶を売りながら、客人と問答するという活動を展開し、京の文人たちと親交を広げたという。煎茶の一般への普及にも貢献するものだったといわれ、どうもこの時期が煎茶の流行の走りであったらしい。

しかし、日本の煎茶の生産を拡大させたのは、意外なことに幕末の開港による海外への輸出であった。

日本茶の海外への輸出は、慶長15年(1610)、オランダの東インド会社が平戸で入手した茶をヨーロッパに運んだのが最初といわれる。その後、英蘭戦争に勝利したイギリスが貿易で優位に立ち、17世紀末以降、盛んに中国茶を本国に送るようになる。

そして、日本が開港すると、そのイギリスとアメリカが早々に煎茶の貿易を始めた。日本にとっては生糸に次ぐ、重要な輸出品となり、明治20年(1887)までの年間輸出額の15パーセントから20パーセントを占めた。

神戸港はその輸出港の一つであり、ここから輸出されたのが宇治茶であった。そして、水運の拠点であった上狛は、増産が進められた茶の集散地となり、多くの茶問屋が軒を連ね、上狛浜から発した帆船が木津川・淀川を経由して神戸へと宇治茶を輸送した。にぎわう当時の上狛は、「東神戸・今神戸」とも呼ばれたと「山城茶業之碑」に記されている。

日本茶の輸出は、品質を巡る軋轢(あつれき)や戦争などの影響を受けて増減を繰り返しながらも、大正時代の第一次世界大戦期まで続いた。近年、日本食への注目とともに海外での日本茶に対する関心の高まりが伝えられるが、実は日本茶の海外でのブームはすでに過去にもあったのである。

 

過去から未来へ、そして世界へ。宇治茶の文化を発信

近代化の歴史を伝える製茶機械展示場写真:近代化の歴史を伝える製茶機械展示場。ロール紙を折りながら窒素充填して袋詰めできるものや、ドイツ製のティーバッグ製造装置、大量の茶葉をブレンドする合組機などがある

株式会社福寿園の創業者である福井伊右衛門が、上狛の地に茶問屋を構えたのは、寛政2年(1790)。以来、この地で茶業の歴史を紡いできた。

その歴史を、復元したかつての茶問屋や実際に使われた道具や装置を通して紹介するのが福寿園山城館の「茶問屋ストリート」である。製茶工場から漂う茶の香りのなか、山城館代表の中村弘治さんに案内をしていただいた。

「茶問屋というのは、商品を仕入れて右から左に流すというようなものではありませんでした。各農家が作った茶葉、これを荒茶といいますが、これを鑑定して値を付けて仕入れ、そこから茎や傷んだ葉を取り除き、茶師が最適な品質になるようにブレンドしたうえ、もう一度、火入れして出荷していました。特に海外への輸出においては、茎が混じっていると、木が入っているなどといって品質の評価が下がったのです。そうしたことが原因で、規制を受けて輸出が減少するというようなことも起こりました」

当初は大勢の選(よ)り子の女性たちによって、茎などを取り除いたといい、のちにはそれでは追い付かず、静電気を使って茎を除く装置を開発するなど、工夫が凝らされていく。高品質化と量産化という、ともすれば矛盾する課題に絶えず向き合ってきたのである。

福寿園では、明治末期から国内販売に主軸を置くようになる。国内の生活水準の向上によって茶の需要が高まったことが背景にあった。始まったばかりの郵便小包制度を活用しての通信販売にも取り組んでいる。

戦後の昭和24年(1949)、6代目当主の福井正巳氏が法人組織に改組。以後、戦後成長期の需要の拡大に応えるために、工場施設の近代化・省力化が図られていく。

その一方で、昭和27年(1952)に京都駅に直売の一号店を開設し、以後も全国各地の百貨店などに直売店を出店。宇治茶の宣伝にも努めた。また、一号店の出店以来、それまで量り売りだった茶を袋詰めで販売。現在では当たり前だが、茶の鮮度を保つことを容易にする先駆的な販売法であった。

また、福寿園は、早くから資料館や体験施設を設けるなどして、茶文化のPRにも取り組んできた。平成27年(2015)に「日本茶800年の歴史散歩~京都・山城」が、上狛茶問屋街などを構成文化財として文化庁の日本遺産に認定されたことを受けて、「福寿園宇治茶街道を行く」と銘打って、京都館(京都本店)、宇治館(宇治茶工房・宇治茶亭)、山城館(後述)、学研館(CHA遊学パーク)を巡り、茶文化に親しむ周遊を提案している。これらを通して、宇治茶文化の過去から未来に触れることができるという。

ことに山城館では、今年から「茶問屋ストリート」をリニューアルするとともに、茶の木の丘などがある「伊右衛門ティーガーデン」を開設。国内外への日本茶文化の発信拠点とし、ティーガーデンで茶摘みが可能になるであろう3~4年後のグランドオープンにつなげる計画である。

「茶の体験や食のスペースも充実させて、ゆっくり滞在していただける場にしたいと思っています。ここでは茶道などの作法についてはあまり気にせず、まずは茶に触れて楽しんでもらえたら」と中村さんは今後への思いを語る。

「夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは茶摘(ちゃつみ)じゃないか 茜襷(あかねだすき)に菅(すげ)の笠」(尋常小学唱歌『茶摘』)。初夏は新茶の季節である。ときには、おいしい宇治茶を急須で淹れて、またこの香りが世界をつなぐ日に想像をはせてみようか。

 

歴史街道 購入

2025年3月号

歴史街道 2025年3月号

発売日:2025年02月06日
価格(税込):840円

関連記事

編集部のおすすめ

中世荘園の原風景を残す泉佐野市・日根野に根ざす「人をつなぐ酒づくり」

兼田由紀夫(フリー編集者)

「松花堂弁当」の名前の由来とは? 四つ切り箱に見る茶人の美

兼田由紀夫(フリー編集者)

伊勢神宮のおふだに用いられる「伊勢和紙」清浄なる紙にやどす信仰と人の営み

兼田由紀夫(フリー編集者)