歴史街道 » 地域の魅力 » 伊勢神宮のおふだに用いられる「伊勢和紙」清浄なる紙にやどす信仰と人の営み

伊勢神宮のおふだに用いられる「伊勢和紙」清浄なる紙にやどす信仰と人の営み

2025年02月27日 公開

兼田由紀夫(フリー編集者)

伊勢外宮参道写真:近年、整備が進み、にぎわいを見せる伊勢外宮(げくう)参道。伊勢和紙はこの外宮門前町の山田で製造されていて、参道に並ぶ献灯の素材にも用いられている

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

今回の逸品は、三重県指定伝統工芸品に指定されている「伊勢和紙」。伊勢神宮のおふだ「神宮大麻(じんぐうたいま)」にも用いられる和紙であり、伊勢市内で製造が続けられ、近年は幅広い用途での活用が図られている。この和紙の成立にかかわる、「大麻」と地域の歴史を探った。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

 

家々の神棚にまつられる神宮大麻とは

大豐和紙工業の工場内の手漉き部門写真:大豐(たいほう)和紙工業の工場内の手漉(す)き部門。大量の需要に応えるため、現在はほとんど機械抄(す)きで製造される伊勢和紙だが、手漉きによる製造も引き継がれ、特別な大麻などに用いられている

身に付けるお守りとともに、家のお守りとして神社で頒布されるおふだ。漢字では「御神札」とも表記される。なかでも伊勢神宮のおふだは格別に神宮大麻と呼ばれ、神棚の中央にまつるのが正式とされ、全国各地の神社で拝受することができる。

現在の一般的な神宮大麻は、縦長の木板を和紙で包み、「天照皇大神宮」の墨書のうえに朱で神璽(しんじ)を押印したものである。その木板には伊勢内宮の南方に位置する神路山(かみじやま)から伐りだした木を用いるといい、用紙も今回紹介する地元で製造された伊勢和紙が使われている。その奉製過程においては、清浄を期して折々に神事を執り行なったうえ、完成後にもお祓(はら)いが施されており、軽々に扱うことはできない。

そのいささか奇妙に思える名称の由来とともに、伊勢和紙の成立ともかかわる神宮大麻の歴史背景をたどってみる。

 

古代より引き継がれる「大麻」の神威

伊勢和紙館写真:伊勢和紙を使った雑貨を販売する「伊勢和紙館」。建築は大正時代のもの。館内では、手漉き和紙の行程や道具の紹介もしている

「大麻」とは、本来は「おおぬさ」と読む。「大幣」とも表記され、紙を切り折って長くした紙垂(しで)や、麻の繊維を糸にした麻苧(あさお)の束を、ふさ状に棒の先に付けた神具のことをいう。神社参拝者の頭上を神職が左右に振ってお祓いをしたり、参拝者自身が身体をなでて清めるために拝殿前に立て置かれていたりして、「祓い串」という俗称で知る人も多いことだろう。

伊勢神宮では、緑葉が付いたままの榊(さかき)の枝に麻苧を結んだものを大麻として祭事に用いることも多い。こうした祓い清めの行為を、神道の用語では「修祓(しゅばつ)」といい、神事には欠かせないものである。

この大麻がおふだの呼び名にもなっていく過程は、歴史の変遷のなかで、伊勢神宮の位置づけが変わっていったことを反映している。

古代律令制のもと、天皇の社(やしろ)として朝廷によって支持されてきた伊勢神宮は、平安時代の終焉とともに朝廷の後ろ盾を失う。だが、かわって台頭した鎌倉幕府を中心とする武家層の後援を受けるとともに、権門として自立へと歩み始める。そして、これ以降、伊勢信仰は天下泰平・五穀豊穣を願うものとして、民衆の間に広まっていく。

ことにその普及に貢献したのが、室町時代以降に活躍する「御師(おんし)」と呼ばれる神職たちであった。もとは「御祈祷師(おいのりし)」という地元の下級神職であったが、日本各地へ出向いて伊勢信仰を広め、檀家を獲得していった。そして、彼らが布教の道具として活用したのが、大麻であった。

御師たちは、伊勢の神威を分かつものとして、大麻を箱に入れて檀家に授与した。さらには、それを簡略化して、小さな祓い串を折りたたんだ紙で包んだおふだを広く配布した。これを「御祓大麻(おはらいたいま)」、あるいは先が尖った包紙の形から「剣祓(けんはらい)」といった。

江戸時代に入ると、御師の活動によって庶民の間に伊勢詣が広まり、その参拝者の受け入れにもあたった御師たちは大いに繁栄する。そして、御祓大麻は伊勢信仰の象徴として世間に認められることになった。近世にしばしば発生した伊勢への大規模な群参「おかげ参り」は、各地に御祓大麻が降ったことが発端とされることがあり、それを伝える絵図には、宙に舞う無数の剣型の御祓大麻が描かれている。

江戸時代の中期、御師の数は内宮門前の宇治、および外宮門前の山田に800軒余を数えたという。しかし、明治維新を迎えると、新政府は伊勢神宮を管轄下に置き、明治4年(1871)には御師制度の廃止を告げる太政官布告を発する。いわゆる国家神道の時代の始まりである。

明治政府は、神道の中核となる神社として、伊勢神宮から世俗的要素を徹底して排除した。そして、御師が配布した御祓大麻に替え、民の日々の拝礼の対象として神宮自体が頒布を開始したのが、神宮大麻であった。

つまり、四角いおふだが一般的になったことで、大麻という言葉の意味がわかりにくくなってしまったわけではあるが、現在も内宮や外宮の神楽殿などで祓い串を包んだ剣祓の大麻も授与していて、伊勢神宮公式ホームページの授与品ページで見ることができる。

 

もと御師邸跡に立つ、唯一の伊勢神宮御用紙奉製所

伊勢和紙ギャラリー写真:神棚がある「伊勢和紙ギャラリー」の一角

伊勢での紙の生産は、平安時代に貢納の記録も残り、古くから行なわれてきたのは確かである。ただ、現在にいう「伊勢和紙」は、明治以降の神宮大麻のために作られるようになった和紙のことを指す。そして、それをいま生産しているのは、伊勢山田に工場を構える、大豐和紙工業株式会社のみである。令和4年(2022)に先代の父の跡を継いで代表取締役となった中北喜亮(なかぎたよしあき)さんに、その歩みをうかがった。

「神宮大麻が作られるようになった当初、その用紙を作る奉製所が幾つか、地元に設けられました。ところが、それぞれに品質が微妙に違う。それで品質統一のために一社でやってほしいという要望が神宮からあり、神都製紙という会社が明治32年(1899)に創立されました。この会社を前身として昭和22年(1947)に名称を変更したのが現在の当社、大豐和紙工業です」

「神宮のおふだという特別な需要があって生まれた伊勢和紙ですから、生産が始まって以来、気を遣ってきたのが清浄であるということです。清らかで綺麗であることが重要で、今日までそれを意識して製造し、しわやしみなど不備がある紙はすべて取り除くために、熟練した検査担当者たちが専用の部屋で集中して作業にあたっています。こうして神宮に納められた和紙は、大麻だけでなく、紙垂などさまざまな用途に使われています」

神宮大麻の頒布数は、年間800万体を超え、多い年には950万体にも及ぶ。昭和30年代に製紙機械を導入して以来、その用紙のほとんどは機械抄きによるものだが、工場内では昔ながらの手漉きによる製造も続けられ、昨年からは最大の五八判(1500mm×2400mm)の手漉き和紙の製造にも取り組み、話題となっている。

入ってくる原料の品質は毎回違い、それを同じ水準の製品に仕上げるためには、その都度、工夫が必要になり、その積み重ねが社の歴史になっていると、中北さんは仕事での苦心を語る。近年は、その品質の高さを生かして新たな需要を生みだそうとしている。

「和紙は印刷に向かないと事典などで記載されていることがありますが、それは誤りです。古くから大量におふだを作るために木版などの印刷技術が使われ、私たちも百年来、印刷用紙としての和紙の実績を重ねてきました。近年は、インクジェットプリンタが普及したことを踏まえて、印刷できる和紙としてのマーケティングを進めています」

伊勢和紙はインクジェットプリントでにじむことがなく、発色もよいという。特に写真をプリントした場合、光沢紙とは異なる表現につながると評価が高い。

写真分野への取り組みは、写真が趣味の先代社長が自分で使ってみたい紙を作ったところ、同好の仲間からも評判がよかったことから始まったとか。以来、伊勢和紙プリントの会員を募集し、現在は書や水彩画のレプリカの制作者も含めて、会員は百人ほどになる。昭和初期に建てられた事務所棟の2階に設けた「伊勢和紙ギャラリー」では、会員による作品展を年に3、4回、実施している。

また、倉庫建物の一部を「伊勢和紙館」として、和紙を使ったさまざまな製品を、提案をかねて販売している。「近年、SDGsという言葉で次の時代への課題が語られますが、和紙の製造では昔から取り組んできたことです。ビニールやプラスチックがなかった時代、それらの製品の多くのものは紙でできていました。和紙にはまだまだ可能性があると思っています」

大豐和紙工業がある場所は、かつて伊勢で最有力の御師であった龍大夫(りゅうだゆう)の屋敷跡という。その遺構は現存しないが、明治13年(1880)に行幸した明治天皇がその屋敷の広間に宿泊したことがあり、行在所跡を示す石段と碑と、龍大夫邸跡の碑が工場敷地内に立つ。伊勢和紙の始まりにおいては、失職した御師の有志が、美濃や土佐から紙漉きの職人を招いて、その技術を導入したとも伝えられている。

「明治の会社設立以来、代表は私で7代目になりますが、中北の家の者が代表となったのは3代目からです。その中北の家は、江戸時代に紙商を営んでいて、その関係から経営に参加したようです。その中北の家は、伊勢暦を作っていたことでも知られています」

伊勢暦とは、御祓大麻とともに御師が檀家に配ったもので、その出版銘の一つに「中北外記(げき)」というものがあり、これが祖先の手によるものという。祖父の時代には版木用の木材がまだ残っていたらしいと中北さん。近代以降の製品である伊勢和紙であるが、その誕生の背景には、ずっと昔からこの地で伊勢神宮にかかわってきた人々の営みが潜んでいるのである。

 

歴史街道 購入

2025年3月号

歴史街道 2025年3月号

発売日:2025年02月06日
価格(税込):840円

関連記事

編集部のおすすめ

刻み煙草用の包丁として一躍有名に...江戸幕府から専売のお墨付きが出た「堺刃物」

兼田由紀夫(フリー編集者)

そうめんは伊勢参りの旅人が広めた...奈良県で辿る「三輪素麺」の伝統

兼田由紀夫(フリー編集者)

年に一航海、北海道から大阪へ...北前船の交易で生まれた「大阪の昆布文化」

兼田由紀夫(フリー編集者)