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そうめんは伊勢参りの旅人が広めた...奈良県で辿る「三輪素麺」の伝統

2024年06月21日 公開
2024年09月10日 更新

兼田由紀夫(フリー編集者)

三輪山遠望
写真:三輪山遠望。三輪山は古来、大物主大神が鎮まる神の山として崇められてきた。

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

今回は、奈良県桜井市の「三輪素麺(みわそうめん)」。保存がきく乾麺であり、夏の定番料理である冷やし素麺、寒い日に温まるにゅうめんと、日常で愛されてきた伝統食品の素麺。近年は、和洋中のさまざまな料理で食材としての活用も広まりつつある。その素麺の発祥の地として知られるのが、奈良・三輪山の麓である。ここには今も、地域の歴史文化と密接な手延べ素麺作りの現場があった。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

 

最古の社、大神神社に伝わる素麺誕生

大神神社写真:大神神社。境内にそびえる大杉は崇拝の対象となっている。三輪素麺の最高等級品の名称「三輪の神杉」は、これにちなむもの。

今より1200年あまり昔のことという。三輪山をまつる大神(おおみわ)神社の神主家・三輪族の氏上(うじのかみ)である狭井久佐(さいくさ)に、穀主(たねぬし)という息子がいた。このころ、飢饉と疫病が地域を襲い、人々を苦しめた。

穀主は三輪明神に救済を祈る。すると神託があり、それに従って穀主は、三輪の里に小麦をまく。ときを経て豊かに実った小麦を収穫した穀主は、三輪山から流れ出る河川の水車を動力とした石臼で実をひき、さらに大神神社内の「狭井の井戸」の神水でこねて麺を打ち、三輪山から吹き下ろす寒風にさらして保存食とし、飢える者の糧とした。

それが三輪素麺の始まりであるという。大神神社の社史にある伝承である。

大神神社と素麺事業者は、今も関係が深く、毎年2月5日には、その年の素麺相場を占う神事「卜定祭(ぼくじょうさい)」が神前で執り行われ、初取引の参考にされているという。また、夏の終わりに境内で開催される、素麺事業者にとっての年中行事の締めくくりにあたる感謝祭では、「そうめん踊り」が奉納されて地域文化の一つとして定着している。

 

古代のデザートがルーツ? 素麺の歴史を探る

三輪素麺写真:鳥居印の描かれた結束帯紙が、三輪素麺の証(写真左)。右は手作業で行われる麺の「さばき作業」。〔提供:奈良県三輪素麺工業協同組合〕

実際に素麺が日本国内で食されるようになるのは、三輪の伝説よりもかなりのちのことらしく、正確な起源ははっきりしない。ただ、奈良時代に唐から製法が伝わった食べ物「索餅(さくべい)」から発展したものというのが通説となっている。

「麦縄(むぎなわ)」という日本式の呼び名もあるこの索餅は、平安時代の『延喜式』にも記載がある。現在も神饌(しんせん)などに用いられているが、小麦粉またはそれに米粉を混ぜて塩を加え、打って延ばしたものを2本、縄状にねじり合わせて油で揚げる。

それはドーナツか揚げパンのような食べ物で、素麺とは見た目は似ても似つかない。ただし、その材料は素麺とほぼ同じで、打って延ばすところも似ている。

もともとは形作ったあと、乾燥させて保存し、食べる際にゆでて、調味料を付けて食したという説もあり、太さはともかくとして、これならば素麺の元型として見てもよいかもしれない。ただ、米食が基本で、小麦を製粉する技術が長く定着しなかった日本では、索餅は祭事などの特別なときに供される食物で、日常に定着することはなかったようである。

麺としての素麺の最初の記録が、南北朝時代の京都祇園(ぎおん)社に伝わっている。麺類全般から見ても、もっとも古い記録であろう。そこでは、同じ麺の食べ物を「索餅」「索麺」「素麺」と三通りに表記しており、この混用はのちの江戸時代まで見られる。

この時代より先に中国では、すでに索麺と呼ばれる素麺同様の食品があり、鎌倉時代以降の禅僧の往来などとともに、その製法が伝わったのではという説も有力である。

室町時代に入ると、素麺は次第に一般に広まっていき、宮中の女房詞(にょうぼうことば)で「ぞろ」と呼ばれたという。また、この時代から江戸時代にかけ、七夕(たなばた)に素麺を供え物とする習俗も生まれた。これは素麺を糸に見立てて、織姫に裁縫の上達を願ったものである。

 

三輪から全国へ――伊勢参りの旅人が広めた素麺作り

冷やし素麺写真:夏の涼味、冷やし素麺。7月7日の七夕は「そうめんの日」。裁縫の上達だけでなく、素麺をいただきながら、恋愛成就、無病息災を願うのもよいそうだ。〔提供:奈良県三輪素麺工業協同組合〕

「大和三輪素麺、名物なり。細きこと糸の如く。白きこと雪の如し」。

江戸時代の宝暦4年(1754)に刊行された名産物案内『日本山海名物図会』の一節である。三輪が素麺の特産地としての地位を、いち早く得ていたことは確かなようである。

その背景には、大神神社の伝承がいうように、小麦の栽培に適した土地、石臼を動かすことができる河川の水力の利、そして製麺に適した水があったことによるのであろう。そして、この三輪から全国各地へと素麺作りが広まっていったことも確かであった。

「江戸時代にこの三輪で1年か2年の間、素麺作りの修業をされ、淡路島に帰られて事業を始めたという人の子孫の方とお会いしたことがあります。今も素麺を製造されていて、その方で6代目か、7代目になると聞きました。事業の始めは三輪だということが語り継がれていて、今も認識しておられるのですね」

と教えてくれたのは、奈良県三輪素麺工業協同組合の理事長、小西幸夫さん。小豆島、そして現在の日本最大の生産地である播州も、その素麺作りの起源は三輪にあるという。

「なかには伊勢参りの途中で、そのまま何年も三輪にとどまった人もいて、故郷の家族がもう帰ってこないのではと心配されるようなこともあったようです。素麺づくりは冬の仕事で、米を作る農民は冬だけが自由な時間になります。つまり農閑期の事業として最適でした。資本もさほどかからず、家族でできることから、産業に乏しい地域の人にとって、生きるためにぜひ学びたい技術だったのでしょう」。

素麺発祥の地にして名産地という歴史を持つだけに、三輪素麺工業協同組合では誇りをもって事業への取り組みを進めている。例えば、素材の小麦粉や油を共同で仕入れて、良質な製品へとつなげている。

「三輪素麺の売りは、やはり強い腰。その食感はこだわるところです。細いほど高等級品になりますが、細くすればするほど、麺を固くしなければならず、そのための工夫や技術が必要で、誰にでも作れるというものではありません」と小西さんは語る。

「一般の生産者の場合、依頼を受けて製造するという感じになりますが、三輪の生産者は、この粉でこういうものを作りたいという思いを持って素麺作りに取り組んでいる方が多いと感じます。そのあたりは自由な部分があって、個々の技術を製品に生かすことができる。大変ではありますが、面白いところでもありますね」。 

「これからは冷やし素麺の時期ですが、実は三輪の地元では温かいにゅうめんを提供する飲食店がほとんどなかったのです」と小西さんから意外な言葉を聞く。最近、訪れる人に一年を通して素麺に親しんでもらおうと、桜井市内のお店でにゅうめんを提供する試みが進められている。

寿司や洋食の店も加わり、今年は34軒が個性的なメニューを用意。案内の「にゅうめんマップ」も地元で配布されている。

大神神社のほかにも、山の辺の道や、天皇陵とされる最初期の前方後円墳など、上古の歴史遺産が多い三輪。それらをめぐりながら、お気に入りの素麺料理も見つけたい。 

 

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