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伊賀忍者も下緒として重用した? 忍びの里に受け継がれる「組紐」文化

2024年04月26日 公開

兼田由紀夫(フリー編集者)

伊賀上野城のシンボルである高石垣
写真:伊賀上野城のシンボルである高石垣。築城の名手といわれた藤堂高虎が築き上げたもので、高さは約30メートル

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

今回は、三重県伊賀市の「伊賀組紐(くみひも)」。多数の絹糸を緻密に組み上げて作られる組紐は、和装の帯締めで知られるが、近年は腕時計のベルトやネクタイなど活用範囲を広げつつある。現在、組紐においては伊賀が国内最大の生産地で、国指定の伝統的工芸品ともなっている。組紐と伊賀とのかかわりの歴史をたどった。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

 

盆地の城下町に息づく歴史文化と伝統工芸

 だんじり会館
写真:伊賀上野城近くの「だんじり会館」。工芸の美に包まれた、だんじり3基を公開するとともに、全国的にも珍しい「鬼行列」を映像などで再現展示し、平時でも祭りを体感できる

伊賀市の中心地である伊賀上野は、城下町の面影を色濃く残す地である。上野盆地北部の高台に位置する伊賀上野城跡から南に、昔ながらの町割をひろげる旧城下町には、武家屋敷の長屋門や町家の蔵が残り、今は忍者が住むわけではなさそうだが「忍町(しのびちょう)」という町名も伝えられている。

近年は、忍者の里として海外からも観光客が訪れ、城跡内に設けられた「伊賀流忍者博物館」などの関係施設が人気を集める。また、俳聖・松尾芭蕉の故郷でもあり、その生家なども観光の目玉となっている。そして、忘れてはならないのが、この地で育まれた伝統工芸の存在である。

 

工芸の文化を育んだ地域性とは?

くみひもstudio荒木写真:組台の一つ「高台」を使っての組紐の製作風景。松島組紐店の工房「くみひもstudio荒木」にて

伊賀上野の城下で培われた伝統工芸への見識をしのばせるのが、菅原神社(上野天満宮)の秋祭、上野天神祭である。

毎年10月25日の前の日曜日までの3日間に催される祭礼で、近世初期の城下町整備とともに始まったとみられ、万治3年(1660)に再興。城内にも巡行して藩主も観覧したと伝える。神輿(みこし)の神幸に供奉する鬼行列と九基のだんじり行列では、美麗な衣装や由緒ある面による仮装、祇園祭の山鉾(やまぼこ)を思わせる豪華な装飾を見ることができる。

この上野天神祭は国の重要無形民俗文化財に指定されるだけでなく、平成28年(2016)11月にはユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」全国33件の一つとして登録されている。

山々に囲まれて隔絶した感のある伊賀だが、古来の文化都市、京都や奈良と伊勢を結ぶ街道の収束地であったことが、こうした文化を育む背景にあった。

江戸時代に入り、藤堂氏が治める津藩の所領となるが、藤堂氏は徳川幕府の重鎮であり、江戸文化とのかかわりも浅くはなかった。東京の上野の地名は、ここに藤堂家の屋敷があり、伊賀上野に風景が似ているとして名付けたことに由来するという。

桃山時代から江戸時代初期に伊賀の作陶「伊賀焼」から茶陶の名品が生み出されたのも、陶土の産地という地の利とともに文化的背景があってのことといえよう。伊賀焼は18世紀以降、藤堂家の庇護のもとに日常雑器を中心に再興し、現在も多くの窯元が生産に携わっている。

その伊賀焼と並んで、この地の伝統工芸品として挙げられるのが「伊賀組紐」である。

原始からの紐は、束ねた糸をより合わせたもので「撚紐(よりひも)」といい、よった糸を複数交差させて緻密に組み上げたものが「組紐」である。経典や仏具の飾り紐として渡来したのが、わが国での最初といい、奈良時代には国内での製造も始まり、礼服の帯などに使われた。素材には絹糸が使われ、平安時代の宮中において芸術性の高いものになっていったと考えられている。

組紐は伸縮性があり、組み方によってその強弱が変えられる。さらに紐の断面が四角い「角組」、丸い「丸組」、リボン状の平たい「平組」と形を変えて組むことができ、用途によって使い分けられた。鎌倉時代以降、武家の世になると、武具の実用および装飾として多用され、特に太刀の鞘(さや)に付ける「下緒(さげお)」として需要が高かったとみられる。

下緒はもともと太刀を腰に結び付けるためのものであったが、太刀を腰帯にはさむようになると、たすきに使うなど汎用性のある太刀の付属品、あるいは色合いや模様を追求する装飾品となった。江戸時代には華美を競うことを嫌って、幕府や藩が色などに規制を加え、緋色の下緒は将軍か大名しか付けられなかったという。

手組みによる時計ベルト写真:松島組紐店で受注生産している手組みによる時計ベルトの見本

 

日本人にとっての紐、「むすび」の文化とともに

伊賀くみひも 組匠(くみ)の里写真:三重県組紐協同組合が運営する、伊賀伝統伝承館「伊賀くみひも 組匠(くみ)の里」館内。組紐についての資料展示や多彩な製品の販売のほか、「丸台」を使用しての製作体験ができる部屋も備えられている

伊賀における下緒の扱いを知るうえで興味深いのは、忍者の後裔である伊賀郷士によって江戸時代前期にまとめられた忍術の伝書『萬川集海(まんせんしゅうかい/ばんせんしゅうかい)』に、「下緒七術」として忍者の下緒の活用法が記されていることである。

七術の一つ「吊り刀のこと」を紹介すると、長い下緒の端を口にくわえたまま、太刀を塀に立てかけてこれを足場にして塀に上ったのちに、下緒をたぐって太刀を手にするというもので、忍者が登場する時代劇の演出でもよく使われている。

また「旅まくらのこと」は、旅宿で眠る際には、大刀と小刀の下緒を結び、その結び目を体の下に置いて眠るというもの。盗もうとする者が太刀を引くと瞬時に気付くというわけである。

安全の保障がない状況で厠(かわや)に入る際の利用法「四方詰めのこと」などもあって、なかなか詳細である。忍びの者にとって、下緒はファッションではなく、活用すべき必須の道具であった。

しかし、明治時代を迎えて廃刀令が出されると、下緒としての組紐の需要も失われ、組紐業者にとって大きなダメージとなった。和装の帯締めに組紐が使われるようになるのはこれ以降のことで、実は下緒の転用であったという。男性から女性へ、時代の転換とともに需要の対象も変化したのである。

「伊賀で古くから組紐が作られていたことは確かですが、産業として発展したのは和装での需要が主となった明治時代以降のことです」と教えてくれたのは、三重県組紐協同組合副理事長で、組紐の製造・卸「松島組紐店」の3代目で伝統工芸士の松島俊策さん。

明治35年(1902)、江戸の時代から伝えられてきた組紐の技術を東京で習得した、廣澤(ひろさわ)徳三郎が伊賀に戻って開業。以来、農家の女性の内職として組紐作りが地域に広まり、組むための台が嫁入り道具とされるまでになったという。松島さんの妻のひろ美さんも、義母から技術を教わった職人の一人だが、現在も女性の職人が少なくない。

「伊賀が組紐の生産地となったことには、主だった産業がなかったということがあります。また、原料の絹糸を生産する養蚕が伊賀周辺で盛んでした。そして、忍びの里ともいわれる伊賀の人たちの気質や生活とも合ったのでしょう」と松島さんは語る。

一本の帯締めを手組みするために、60玉もの糸を操り、4日を要することがあるといい、並の心構えでは作業に向き合うのは難しい。体調が優れないときには、すぐに組んだ目に乱れが生じるともいう。

平成28年(2016)に公開され、世界的なヒット作となったアニメーション映画『君の名は。』では、主人公の少女が作る組紐が、物語の重要なキーアイテムになっていて注目を集め、伊賀でも類似の組紐製品への問い合わせが数多く寄せられることになった。

この物語で組紐が取り上げられた背景には、日本の「むすび」の文化があると思われる。例えば、神の領域を示す注連縄(しめなわ)、あるいは、さまざまな意味を持つ多様な飾り結びなど、日本人は「むすび」に実用性を越えた思いや願いを込めてきた。

伊賀に組紐が根付いたことは、そのことと無縁ではないのかもしれない。なぜなら、時空を超えて人と人を結び、文化を築いてきた地こそ、この伊賀であると思えるからである。

 

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