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石臼で豆を挽き...神戸に復刻した「日本最古のコーヒー」の味

2024年02月20日 公開

兼田由紀夫(フリー編集者)

放香堂
写真:メインストリートの神戸元町商店街に並ぶ、日本茶の老舗「放香堂(ほうこうどう)」本店と「放香堂加琲」の店舗

あのまちでしか出会えない、あの逸品――。そこには、知られざる物語があるはず!

「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

第5回は、兵庫県神戸市の「コーヒー」。幕末の開港以来、海外文化の導入口であった神戸。コーヒーもまた、この地が最初期の輸入拠点であり、その喫茶文化の起点であったことが資料から判明している。そこにあった日本茶との接点とは。そして、復刻された当時の「加琲(コーヒー)」とは。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

 

アフリカからアラブ、ヨーロッパを経て日本へ──コーヒー千余年の旅

旧居留地十五番館
写真:神戸市中央区の旧居留地十五番館。外国人居留地時代の洋館として唯一現存する建物で、明治13年(1880)頃にアメリカ合衆国領事館として建てられた。阪神・淡路大震災で倒壊したが、創建時の姿に復元されている。重要文化財。

コーヒーの木はエチオピアの高原地帯を原産地とし、その果実は古くから食用とされていた。9世紀頃にアラビア半島に伝わり、乾燥させた豆を用いたコーヒーの原形といえる飲み物が、一部のイスラム寺院内で覚醒の秘薬として扱われたという。

13世紀に入るとコーヒー豆は焙煎されるようになり、香り高いその飲み物はイスラム世界全体へと広まり、17世紀以降、コーヒーはヨーロッパ、アメリカへと伝播していく。そして日本へは18世紀、長崎出島のオランダ商館にもたらされ、ここに出入りする日本人のなかにコーヒーを供されて味わう者も現れるのである。

 

初めてコーヒーと出遭った日本人たち

オランダ人はコーヒーの商品価値にもっとも早く着目し、世界に広めることに貢献した人たちであった。1615年、アラビア半島南西端のイエメンの港町モカからベネチア商人によって初めてヨーロッパへ向けてコーヒー豆が出荷されると、翌年にはオランダ商人も同地からアムステルダムへと舶載。

1640年に大量に輸入して多大な利益を出すと、1663年からアムステルダムの公売所で定期的に売買がされるようになり、ヨーロッパのコーヒー普及の拠点となった。

また、1658年以来、オランダ東インド会社は南・東南アジアでのコーヒーの栽培を試み、1680年には植民地のジャワ島(インドネシア)に苗木を移植、1696年にバタヴィア(現在のジャカルタ)にプランテーションを置いた。

このジャワ産コーヒーは18世紀以降、ヨーロッパに輸出されるが、出島のオランダ商館にも届けられ、商館員の日常に供されたとみられる。

18世紀後半には、蘭語辞書の翻訳などを通して日本語でコーヒーについて紹介されるようになるが、日本でのコーヒーの飲用はまだまだ広まることはなかった。

安永5年(1776)、オランダ商館長の江戸参府に同行した医師のカール・ツンベルグは、紀行中にこのように述べている。

「オランダ人がヨーロッパの飲み物を供しても、日本人がこれを味わってみることは滅多にない。2、3の通訳がようやくコーヒーの味を知っている程度である」。

御家人で文人としても名を残す大田南畝(なんぽ)は、長崎奉行所に赴任中の文化元年(1804)、出島に碇泊する紅毛船(オランダ船)で接待を受けてコーヒーを飲んだ。

その感想を随筆『瓊浦又綴(けいほゆうてつ)』に記すが、「豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり。焦げくさくして味ふるに堪へず」と散々な評価である。

文政6年(1823)、オランダ商館付き医師として来朝したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、コーヒーの効用の信奉者であった。彼は日本でのコーヒー普及のための意見を述べている。

「日本人は温かい飲み物を用いての交際を好むのにもかかわらず、しかも世界のコーヒー商人であるオランダ人と通じながら、コーヒーが日本人の間で広まっていないのは実に驚いたことである。

日本人は余らと会合するときは好んでコーヒーを飲み、長崎の知人たちが求めるコーヒーに不足するほどである。このことから推測するに、きちんと計画を立ててやれば、コーヒーの普及ができないことはないと信じる」。

シーボルトはコーヒーが良薬であることを宣伝する必要や、普及の難点として豆の焙煎の難しさを挙げ、炒った豆を粉にしてカンかビンに密閉し、レッテルを貼って調理法と飲み方の解説を記して販売するという具体的な案も挙げている。なかなかの先見の明である。

興味深いのは、出島に出入りできた丸山遊郭の遊女が寛政9年(1797)に提出した、オランダ商館員から受けた貰い物の届けのなかに、ショクラアト(チョコレート)、サボン(石鹸)などと並んで鉄小箱入りコヲヒ(コーヒー)豆があり、また、のちにも別の遊女がコーヒーを淹れる道具「コーヒーカン」やコーヒー茶碗などをもらい受けた記録が残っている。

日本でのモダンライフの先駆は実はこの方面にあったのかもしれない。

 

日本最古のコーヒー店を探して

放香堂加琲
写真:「放香堂加琲」店内ディスプレイ、『豪商 神兵 湊(みなと)の魁(さきがけ)』に掲載された明治初期の放香堂の店構え。「宇治製銘茶」と並んで「印度産加琲」の看板が掲げられている。一般的な漢字表記「珈琲」と異なる店名の「加琲」はこれにちなむ

日本でのコーヒーの普及は開国後、西洋料理などの欧米文化の導入が図られた文明開化の時代を待たねばならなかった。そのなかで最初期の本格的喫茶店として名前が挙げられる「可否(カヒー)茶館」はやはり特筆すべき存在である。

明治21年(1888)4月に東京上野西黒門町(現在の台東区上野1丁目)に開業した可否茶館は、青ペンキ塗りの2階建て洋館で、館内に内外の雑誌を取りそろえ、玉突き場、文房室や化粧室も設けた充実したコーヒー店であった。

主人は鄭永慶(ていえいけい)といい、中国語・仏語・英語に通じた国際人で大蔵省に勤務したが、辞職して三十歳で開業。文化人や芸術家の交流サロンであった欧米のコーヒーハウスをモデルとした意欲的事業であり、ハイカラ文化に焦がれる学生たちがここに集ったという。

しかし、永慶が投資に失敗し、4年ほどで閉店。永慶は密航してアメリカ・シアトルに渡り、明治27年7月にかの地で没した。

可否茶館に先駆けること10年、明治11年(1878)12月26日、読売新聞夕刊の紙面下段に一つの広告が掲載された。「焦製飲料コフイー 弊店にて御飲用あるいは粉にてお求めともに御自由」の見出し。

本文はコーヒーの来歴を紹介するとともに、用法について解説。「神戸元町三丁目の茶商 放香堂謹んでもうす」と結ぶ。横浜には開港以来、コーヒー豆の輸入販売を行う外国人経営の店があったが、店内で喫茶できるとした資料はなく、この広告を出した「放香堂」は、最古のコーヒー店と考えられる。

「放香堂」とは、現在も神戸市中央区元町通3丁目に本店を構える宇治茶の老舗である。天保年間(1830~1843)に山城国東和束村(現在の京都府和束町)で自家茶園をもって創業。

全国一円に卸売りを行い、安政5年(1858)には江戸にて大名家の御用商人となり、屋号をいただいたという。慶応3年(1867)、開港にあわせて神戸に海外へ茶を輸出するための商館を設け、輸出時に使用した茶壺にコーヒー豆を詰めて輸入も手掛けるようになった。

明治7年(1874)には外国人居留地に近い元町通に店舗を開店。茶とともにコーヒーの粉を販売し、喫茶もできるようにしたとみえる。

明治15年(1882)に刊行の神戸兵庫の企業名鑑『豪商 神兵 湊の魁』には、放香堂の店舗の絵図が掲載されている。描かれた店舗は喫茶店のイメージとはほど遠い和風の商家だが、茶器を前にして座敷に座る客人の姿もあり、コーヒーもこうして提供されたのであろう。

子会社を通してコーヒーなどの貿易事業を引き継いできた放香堂だが、2017年の神戸開港150年を前に平成27年(2015)10月にコーヒー専門店「放香堂加琲」を本店の一部を改装して開業。その目玉として、日本最古のコーヒーの復刻に取り組む。

神戸海軍操練所を開設するなど、神戸港ゆかりの勝海舟の通称にちなんで「麟太郎」と名付けられたそのコーヒーは、明治期に輸入していたインド産アラビカ種の豆にこだわり、当時はコーヒーミルがなく、石臼で挽いていたことからこれも再現。

また、淹れるのも一般的なドリップ式ではなく、当時の方法に近いフレンチプレスを採用している。

石臼で挽いたコーヒー豆は粒の大小にばらつきがあり、またフレンチプレスで抽出することで、オイル分とわずかに残る豆の粒子の舌触りが感じられ、コクと苦味が強いが、生き生きと香ばしいコーヒーになっている。

評判について、スタッフの高岡亜由さんに尋ねた。

「オープンして8年を超えて地元の常連の方もできましたが、場所柄、外国からの方をはじめとした観光にあわせての来店が多いですね。やはり『日本最古のコーヒー』ということにひかれて来られる人が多いと感じます」。

まさに「温故知新」、国際港湾都市神戸の歴史に思いをはせる新たなアイテムとなっているようである。店頭でのテイクアウトも可能ということで、近くの旧居留地や南京町の風情を楽しみながら味わいたい。

放香堂加琲
写真:「放香堂加琲」店頭で存在感を放つ、コーヒー豆を挽く石臼。専用に開発した特注品とか

 

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