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「松花堂弁当」の名前の由来とは? 四つ切り箱に見る茶人の美

2025年03月25日 公開

兼田由紀夫(フリー編集者)

石清水八幡宮
写真:男山の石清水八幡宮。石灯籠が立ち並ぶ参道から楼門を望む

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

今回の逸品は、「松花堂(しょうかどう)弁当」。正方形の箱の内側を十字に仕切った「四つ切り箱」に、料理を盛り合わせた会席(懐石)弁当のことで、日本料理店の昼食献立や仕出し弁当の定番となっている。

とはいうものの、近年の若い世代は、「松花堂」の名称の由来や四つ切り箱とのつながりを知らない人も多いと聞く。松花堂弁当の発祥にかかわる地とされ、松花堂庭園・美術館を擁する京都府八幡市にその歴史を尋ねると、そこには、「茶」の世界に理想を求めた人たちの姿があった。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

 

松花堂──石清水八幡宮ゆかりの文人にして茶人の名から

京都吉兆・松花堂店で提供されている松花堂弁当写真:京都吉兆・松花堂店で提供されている松花堂弁当〔写真提供:京都吉兆〕

松花堂弁当の「松花堂」とは、松花堂昭乗(しょうじょう)という人物の名に由来する。京の都の南西、桂川・宇治川・木津川の三川合流部の南岸に位置する男山。昭乗は、その山上に鎮座する古社、石清水八幡宮の社僧であり、江戸時代初期、「寛永の三筆」の一人に数えられた文人として知られる。茶人でもあり、その名のもとをさらにたどると、彼が男山に構えた草庵「松花堂」に行き当たる。

その松花堂を弁当の名に最初に用いたのは、日本料理界の重鎮、料亭「吉兆」の創業者であった湯木貞一氏である。その経緯も興味深いが、それを語る前に、松花堂昭乗の人となり、そして彼の出自の謎について述べてみたい。

 

幕府にも物怖じしなかった気骨ある文人とは何者だったのか

松花堂庭園の外園の一角写真:松花堂庭園の外園の一角。美しい竹林のほか、椿でも知られ、200本の多様な品種の花を4月末ごろまで観ることができる

大坂夏の陣で豊臣家が滅んで2か月あまりを経た元和元年(1615)閏6月のある日、のちに松花堂を号する昭乗は、江戸城内にいた。昭乗は、男山四十八坊と呼ばれた石清水八幡宮の僧坊の一つ、瀧本坊(たきもとぼう)の住僧であったが、幕府から寺領御朱印の発給や、古書の書写の任を受けて、前年から江戸に出仕していたのである。

この日、昭乗は、留守中の瀧本坊で起きた問題について、幕府からの詰問を受けた。大坂城の落城後、京都所司代が落ち延びた豊臣方の者を隠匿することがないよう、諸所に達しを出していたところ、瀧本坊に嫌疑がかかった。昭乗の絵の師であった狩野山楽(かのうさんらく)が避難していたのである。

山楽は豊臣家に厚遇され、大坂を拠点にその作事の多くにかかわっていた。武士の地位も捨てていたわけではなく、徳川方にとって見逃すことのできない人物であった。

この件を問い詰められた昭乗は、きっぱりと言い切った。

「狩野山楽は画工であって武人ではない。東福寺の法堂に山楽が描いた龍の絵の傍らには、大谷刑部少(ぎょうぶのしょう)吉継、画工に命じてこれを図とする、とあるではないか」

この昭乗の強弁と、京の公家たちの根回しもあって、山楽は捕縛を免れたという。

その気概をよしとされたのか、昭乗も失脚することなく、近衛信尹(このえのぶただ)、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)とともに「寛永の三筆」の一人に挙げられる能書家として、寛永元年(1624)から将軍家書道師範として再び江戸城に出仕したと経歴に記す。

そうした伝説的逸話が多い昭乗であるが、つとに話題とされることがあった。出自の謎である。

昭乗の生誕年については、天正10年(1582)と天正12年(1584)の二つの説があり、出生地も摂津堺、奈良春日の二説があって、父母については明らかではない。ただ、もとの姓は中沼とされ、兄があり、この兄が近衛信尹に仕え、幼少の昭乗も信尹とともに、信尹の父の近衛前久(さきひさ)に学んで、書の素養を得たという。

一説に、昭乗が石清水八幡宮の瀧本坊に入ったのは、慶長3年(1598)。20歳ごろから空海を尊崇し、四天王寺、智積院などでも真言を学んだ。狩野山楽の事件があった際、瀧本坊にいた師の実乗に、昭乗の出自についても幕府から問い合わせがあったといい、これに実乗は「9歳にして拾い子をした」と、苦渋を思わせる応答をしたと伝える。

昭乗自身も父母については、決して語らなかった。しかし、彼は若いころから公家や幕府の調停にかかわることがあり、並みの出自であったとは思われない。古くより詮索も受け、豊臣秀次、あるいは秀頼の子という説もあったが、年齢的に符合しない。足利義昭や近衛前久を父と推定する意見もあるが、文献による確証には至らない。ただ、瀧本坊は近衛家から扶持を受けていたというが......。まことに興味深いことである。

寛永6年(1629)、務めを終えて、昭乗は石清水八幡宮に帰山し、瀧本坊住職となる。文人として名は一段と高く、茶人としての交流も深まる。関白にして風流人であった近衛信尋(のぶひろ)をはじめとして、小堀遠州、狩野探幽、石川丈山ほか、当代の文人・茶人と広く交わった。

寛永14年(1637) 、昭乗は瀧本坊の住職を兄の子で弟子の乗淳に譲り、自らは男山の泉坊に建てた、茅葺(かやぶ)きの二畳余の茶室にして草庵の「松花堂」に移り住み、この庵の名をそのまま号とした。そして、2年後の寛永16年(1639)9月18日、昭乗は没する。

 

草庵「松花堂」の移転と「四つ切り箱」をめぐる人々

松花堂庭園の茶室の一つ「松隠」写真:松花堂庭園の茶室の一つ「松隠」には、小堀遠州が昭乗のために瀧本坊に造った茶室「閑雲軒」が小間として復元されている。もとは崖にせり出した空中茶室であったという

さて、草庵松花堂の近代以降の変転と、松花堂弁当誕生の経緯をたどってみたい。ちなみに松花堂弁当の成立については諸説あり、そのなかでの一つの現実的な推察であることをお断りさせていただく。

明治維新からまもなく、新政府の神仏分離の通達を受けて、男山の僧坊はすべて破却が決定され、施設は競売にかけられることになった。草庵松花堂も対象となり、明治7年(1874)に泉坊書院とともに600両で売却されて山麓に移築されたという。

その後、所有者が変わり、明治24年(1891)には、地元の名望家であった井上忠継氏が入手。井上氏は明治30年(1897)に土地を購入して庭園とし、ここに松花堂と泉坊書院を移築した。これが、現在の松花堂庭園の内園にあたる。その後、井上氏の二人の息子で、養子に出て実業家として活躍した西村芳次郎氏と今中伊兵衛氏もこの庭園の整備に努めた。

特に茶の湯を愛好した西村芳次郎氏は、明治末ごろから泉坊書院に住み、昭乗関係の書画骨董の収集にあたるとともに、江戸時代に描かれた草庵松花堂の図などを参考にして庭づくりを進めた。

これによって、昭和期には名園として取り上げられるようになり、昭和12年(1937)には作庭家の重森三玲(みれい)が実測図の作成のために訪れている。さらに西村氏は、昭乗にならって草庵と書院を文化サロンとして活用。京都・大阪の財界人などの賓客のほか、徳富蘇峰、吉井勇、梅原龍三郎などの文化人が集う場となった。

西村氏たちの尽力により松花堂昭乗の存在が世間に広く認知されるようになった、昭和8年(1933)ごろのこと、昭乗の墓所である八幡市の泰勝寺を、一人の料理人が訪れた。「吉兆」の創業者、湯木貞一氏である。

まだ30歳を過ぎて間もなく、カウンターのみの割烹を独立開店して3年になるか、ならないかの時期であった。しかし、湯木氏は早くから茶道に興味を持ち、茶懐石を自身の料理に取り入れたいという志を抱いていた。この訪問もおそらくその思いからのものであったのだろう。

泰勝寺には昭乗にちなむ茶室があり、その片隅に四角い箱が積まれているのを、湯木氏は見た。それを手に取ると、内部が十字に仕切られた四つ切り箱であった。寺の人に聞くと、お斎(とき)を盛るのに使っているといい、こうした箱は、もとは煙草盆や絵の具箱として用いられたものと教えられた。

湯木氏は、この容器に自身の料理を盛りつけたいと考え、一つを譲り受ける。そして、前菜を盛るなどの試行を重ねたのち、四角の大きさを縮めたうえで高さを増し、蓋を付けるなどの改良を施した四つ切り箱を作り、会席弁当に用いた。由縁から「松花堂弁当」と名付けられたこの弁当は、湯木氏の名声が料理界で大きくなるのにあわせて、日本料理店のスタンダードとして定着することになる。

しかし、なぜそのような箱が泰勝寺の茶室にあったのであろうか。実はこの寺は、西村芳次郎氏たちが中心になって大正3年(1914)に発起した「松花堂保存会」が、荒廃していた昭乗の墓所を整備し、大正7年(1918)に創建した寺院であった。

昭乗が愛用したと伝えられる四つ切り箱の煙草盆が、彼が住職を務めた瀧本坊にあったと、記録に残っている。それを模した四つ切り箱がいくつか伝わり、西村家の四つ切り箱が松花堂美術館に伝わる。

泰勝寺の茶室では、昭乗の忌日などに茶会が催されており、おそらくそこで昭乗をしのぶために、点心などを盛る容器として、西村氏ら保存会の人々がこの箱を用意したのではなかったか。昭乗から西村芳次郎氏、そして湯木貞一氏と、茶人の美意識がこの箱を奇しくも選ばせたのであった。

戦後、草庵松花堂とその庭園は西村家の手を離れるが、昭和32年(1957)に国史跡に指定される。昭和40年(1965)には、塚本總業の社長であった塚本素山氏が、草庵・書院とともに庭園を購入。周辺の土地を外園として整備し、美術館(現在の旧館)と3つの茶室を設けた。

そして、昭和52年(1977)の八幡市制移行を記念して市が内園・外園の庭園土地建物を取得し、平成14年(2002)には、寄贈された美術品を公開する新たな松花堂美術館を併設して開館。平成26年(2014)10月には「松花堂及び書院庭園」が国の名勝に指定されることにもなった。

松花堂美術館の開設とともに、別館に京都吉兆の松花堂店が開店している。店長の松田絵里さんに出店の子細を尋ねた。「松花堂弁当のゆかりの地ということで、八幡市の要望を受けての出店であったと聞いています。松花堂弁当をお品書きにご用意していますが、京都吉兆の店舗のなかで通年お出ししているのは当店だけです。「吉兆」創業者、湯木貞一の考案であることを伝えるとともに、やはり地域の文化を大切にしたいという思いがあります」

松花堂弁当については、料理長の土居竜也さんが語ってくれる。

「仕切りがある松花堂弁当は、汁気があるものや、温かいもの、冷たいものも一つの弁当箱でお出しできるという利点があります。そこを基本としながら、私たち若い世代が新しい考えを足して、例えば湯気が出るような仕掛けを加えるなど、日々進化もしています」

仕切りごとに手分けして作ることができる利点の一方で、同時に仕上げなければならない難しさもあるとか。なにより、創業者が生み出した松花堂弁当を、ゆかりの地で作ることには、重圧を感じると土居さん。それだけに腕の見せどころともいえそうである。

松花堂庭園では、平成30年(2018)の大阪北部地震によって草庵松花堂・泉坊書院とも被災し、以来、内園部分へは立ち入ることができない。しかし、復旧は進められていて、近い将来にはかつての姿を拝することができそうである。それまで、昭乗と草庵松花堂に寄せてきた、茶を愛した人々の思いを映す、松花堂弁当を楽しむのも心の贅沢であろう。

 

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