2024年11月26日 公開
写真:森野旧薬園がある裏山から望む宇陀松山地区。眼下に森野吉野葛本舗の建物群と旧工場の晒し場が見える
あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。
今回の逸品は、前回に取り上げた吉野杉と同じく、「吉野」の名を冠する「吉野葛(よしのくず)」。葛の根から精製した澱粉(でんぷん)である「葛粉(くずこ)」の最高級品として知られ、主に高級和菓子や日本料理の食材として利用されている。
特に奈良県内で作られる100パーセント葛の澱粉のみの製品を「吉野本葛」といい、50パーセント以上とする「吉野葛」とともに、特許庁の地域団体商標登録を受けている。現在は数少ない吉野葛の生産地の一つである奈良県宇陀(うだ)市大宇陀に、吉野本葛の製造に携わる老舗を訪ね、その魅力と現在について聞いた。さらに、この老舗に引き継がれてきた薬草園についてもあわせて紹介したい。
【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。
【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。
写真:城下町の歴史を伝える松山西口関門。国の史跡に指定され、地元では「黒門」と呼ばれている
奈良盆地東側の大和高原南端に位置する宇陀市。その南西部を大宇陀といい、この地域の中心である旧街道沿いの地区を宇陀松山という。この旧街道は、北は榛原(はいばら)で奈良と伊勢をつなぐ伊勢本街道に接し、南は和歌山・熊野への街道につながる要衝である。
戦国時代には地元国人がこの地に城を構え、豊臣秀長が大和国の領主として大和郡山城に入ってのちは、支城の宇陀松山城として整備されて領国支配の拠点の一つとなった。宇陀松山はその城下町として発展したところである。
大坂の陣ののちの元和元年(1615)、宇陀松山城は破却されるが、織田信長の次男である信雄(のぶかつ)が領主となり、この地に陣屋を置く。以後、四代にわたって織田氏が治めるが、元禄8年(1695)に丹波柏原(かいばら)に転封。宇陀松山は幕府天領となった。
この変遷のなかで町は繁栄を迎え、その活況ぶりは「宇陀千軒」と称された。現在も重厚な町家が軒を連ねる町並みが残り、平成18年(2006)には伝統的建造物群保存地区に指定されている。
写真:旧街道沿いの森野吉野葛本舗の店構え
宇陀松山の旧街道沿いに建つ町家の一つが、森野吉野葛本舗である。およそ450年前の永禄年間(1558~1570)、吉野郡の下市(しもいち)で、初代が起業したといい、元和2年(1616)に宇陀松山に移転してきたと当家の記録に残る。以来、絶えることなく、この地で葛粉の製造を営んできた。
マメ科のつる性植物である葛は、可憐な花が古来より人々に親しまれ、秋の七草にも数えられる身近な植物である。繁殖力は旺盛で、日本中の山野に自生するが、ことに吉野の地とは縁が深く、吉野町内の国栖(くず)を呼び名の起源とする説がある。この地が古くからの葛粉の産地であったのが、その理由とされる。
葛の根を掘り出すことを生業(なりわい)とする人を「掘子(ほりこ)」といい、50年ほど前までの吉野山近辺には、農閑期に山に入る農業兼業の掘子も多かった。もっとも近年は、そうした人たちも少なくなり、森野吉野葛本舗でも九州の鹿児島・宮崎などを主な原料の入手先としている。
むしろ、「吉野葛」が高品質の葛粉の別名として引き継がれる理由は、「吉野晒(さら)し」と呼ばれる伝統の製造工程にある。山から掘り出した葛の根を繊維状に粉砕し、澱粉を絞り出すが、この段階では泥や灰汁(あく)などの不純物を含む茶色く粗雑なものであり、これを水洗いしていく。
清水に溶かして機械で攪拌(かくはん)してから沈殿させ、濁ったうわ水を捨て、また新しい水を入れてかき混ぜて沈殿させる。繰り返すこと7回から10回。だんだんとうわ水が澄み、不純物が取り除かれた真っ白い葛粉だけが精製される。
葛粉はきめが細かく、1回の沈殿に2日かかるといい、この晒しの過程だけで2週間から3週間。さらに最終的な乾燥の工程を含むと完成には約2か月を要する。そして、この製造は、腐敗を避けるために冬の厳寒期に限られる。また、晒しに使用する水も重要で、水道水などではよい製品は得られない。
「葛粉は特に風味が繊細なので、風味を変えないという意味でも不純物の少ない柔らかい水が必要です。宇陀にはそういう地下水が昔と変わらずあり、その恩恵は今でも大きい」と、森野吉野葛本舗の20代目当主、代表取締役の森野藤助さんはいう。葛の晒しに適した高地の寒冷な気候と、豊富な地下水が得られる場所、それが宇陀松山だったのである。
「この地に住んで、古い地域の歴史の大切さを外の人から聞くと、同じことを続けていくことの価値を意識して、大事にしていきたいと改めて思います。葛粉を納めている和菓子屋さんのなかには、創業から500年にもなる老舗があり、そこでは季節ごとに決まった和菓子を店頭に並べるということを続けられておられます。そういうところのお菓子の素材の1つとして、貢献していけるようにしなければならないなと感じます」
長い生産の時を経て、一つの製品が歴史文化となることを教えてくれる言葉である。ただ、今という時代に存在をアピールするうえでの難しさもある。
「葛粉は粉のままだと長期間の保存が可能で、飢饉などに備えて各家で製造していたようです。江戸時代にはそれが奨励されてもいました。ただ、一旦、熱を加えて調理すると、劣化が早い。短時間で、もっちりした食感が失われて、ポツポツと切れるようになり、白く濁ってきます。砂糖などを加えて調理すると1日ほどはもつこともありますが、それでもおいしくいただくには鮮度が大切です」
現在の日持ちのする和菓子では、葛粉に代えてタピオカなどの澱粉が使われ、食感は似て非なるもので、葛粉の味わいは忘れられつつあるのである。
森野吉野葛本舗では、22年前に近くの国道沿いに新たな工場を設けるにあたって、葛切りや葛餅などを提供する店舗「葛の館」を併設した。本葛を使った作り立てのおいしさを少しでも広めたいという思いからである。
「お店だけでは成り立たないところですが、初めて来られた方から、こんなにおいしいものなのですねと感想をいただくこともあります。繰り返し来ていただいている方もおられ、お店を設けてよかったと思っています」
写真:森野旧薬園内の「桃岳庵」は、賽郭(さいかく)の号を称した通貞が、隠居後に居住した山荘。ここで通貞が、702種の植物に鳥獣・貝などを加えて全1002種を記した彩色図譜『松山本草』全10巻が、薬園の蔵書に残る
森野吉野葛本舗の裏山には、同本舗が管理する森野旧薬園という国史跡の薬草園があり、公開されている。また、江戸時代後期の宇陀松山には50軒を超える薬種問屋が建ち並び、「薬の町」としての地域の過去も伝えられる。その背景にあった森野家と薬草園の歴史についても述べておきたい。
推古天皇19年(611)5月、「兎田野(うだの)に薬猟(くすりがり)す」という、薬猟についての最古の記録が『日本書紀』に残る。兎田野とは大宇陀の野であり、薬猟とは、薬効がある鹿の角をとる猟のことで、このとき女性たちは薬草を摘んだという。古代より大宇陀は薬とかかわりが深い地であった。
風邪の生薬「葛根湯」で知られるように、葛の根は漢方で使われる薬草でもある。そうしたことの影響もあったのであろうか、森野吉野葛本舗の11代当主、森野通貞(みちさだ)は薬草木を愛好し、本業のかたわらこれを屋敷内で栽培して研究に勤しんだ。
おりしも将軍・徳川吉宗の時代。幕政の刷新「享保の改革」を進めた吉宗は、その一環として、輸入に頼っていた漢方薬の素材である薬草の、国内での生産に取り組む。東京の小石川植物園の前身、御薬園の開設はよく知られている。吉宗はまた、薬草を収集するために「採薬使」を立てて全国への派遣を実施した。
そして、大和の地にも、筆頭の採薬使であった植村左平次政勝が入ることになった。その際に宇陀松山から道案内役が出され、その一人として薬草に詳しい通貞が選ばれて、左平次とともに採薬の旅に出たのである。
享保14年(1729)4月から7月に及んだこの採薬行は、室生から吉野の山地、さらに奥地の山上ヶ岳などを経て十津川、高野山、金剛山、初瀬から名張に至ったもので、幾多の難所と悪天候、さらには蛭の被害や、食糧と宿所の手配にも難儀するものであったことが左平次の日誌に記されている。
しかし、旅の成果は大きかったと見え、同行した大和の者のなかには御家人に取り立てられた者もあった。通貞はこれを辞退したが、褒賞として朝鮮人参などの貴重な薬草木を下付され、これを自宅の裏山を切り拓き育成した。これが現在、森野旧薬園として伝わる薬草園の始まりであるという。
左平次と通貞は、薬草とその知識を通して主従を越えた関係を結び、以降も3度の採薬の旅をともにし、初回の旅から足掛け20余年、30余国に足跡を残すこととなった。この功績により、通貞は苗字帯刀を許され、多くの学者たちとの交流を深める機会を持った。そして、その好学の意志は薬草園とともに子孫へと受け継がれた。
森野家でも一時期、葛粉より薬種の商いが多かったというが、のちに宇陀松山に多くの薬種問屋が生まれた背景として、森野通貞と薬草園の存在は大きなものであったことだろう。
かつて薬問屋だった商家の一つが、歴史文化館「薬の館」として公開されているが、そこでは現在の著名薬品企業の創業者となった、幾人ものこの町の出身者が紹介されていて驚かされる。近代に入ってこの地での産業として使命を終えながらも、森野旧薬園として伝えられてきた意味がここにある。
薬草園の開設以来、森野家では薬草の一つでもあるカタクリを大量に栽培して片栗粉を製造し、幕府へ納付していたという。現在はもうその製造はしていないが、3月の終わりから4月にかけて、森野旧薬園ではカタクリの花が咲き誇る。
大宇陀の野にあって、後藤又兵衛とのゆかりで知られる「又兵衛桜」の見ごろの時期とも重なり、あわせて訪れる人が多いという。そこに加えて「葛の館」で本葛の味覚を学び、地域の歴史を感じるのもよさそうである。
更新:12月10日 00:05