2024年10月28日 公開
写真:吉野の山岳信仰の中心で、世界遺産に登録されている金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂(ざおうどう)。修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)がこの地で感得した蔵王権現の三体の巨像を本尊、秘仏とする
あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず! 「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。
古代より山岳信仰の聖地とされてきた奈良県吉野は、「一目千本(ひとめせんぼん)」といわれる桜の名所でもあり、「よしの」の語は桜の代名詞ともなっている。その一方で、吉野山周辺の山地は、中世末期から建築材の供給地として注目され、いち早く林業が興った地とされる。なかでもこの地で産する杉は、丈夫で美麗な銘木として「吉野杉」の名で呼ばれてきた。長く地元で営む製材所で、その歴史と現在を尋ねた。
【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。
【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。
写真:吉野川の景勝地、宮滝。川沿いに吉野離宮があったと伝わる
山の下側から上、奥へと「下千本・中千本・上千本・奥千本」と称される膨大な吉野山の桜木。それらは、役行者が蔵王権現を像に彫る際に桜の木を用いたという伝承から、桜が聖なる樹木とされ、平安時代後期以降、盛んに寄進されて植えられてきたことによって生じたという。そうした植林の歴史があったからか、吉野での林業は国内でもいち早く、1500年代にはすでに営まれていたと、古記録から推定されている。
ことに文禄3年(1594)に5千人もの配下を引き連れて吉野で花見の宴を開いた豊臣秀吉は、吉野を直轄地とし、大坂城、伏見城、聚楽第(じゅらくてい)、方広寺など、かずかずの大建築の用材をここから供給させた。その伐採後には新たに苗木が植えられ、林業の興業につながったのだという。
写真:吉野杉の山林。天に向かってまっすぐに立ち並ぶ美しい姿は、丁寧に手入れされてきたことの賜物である〔写真提供:吉野中央木材株式会社〕
産業として吉野林業が確立したのは、江戸時代中期、1700年ごろと見られる。というのは、この時期に灘をはじめとする摂津・和泉地域(現在の兵庫県南東部と大阪府)の酒造業が、江戸へと販路を広げて勃興。特に酒樽専用の樽廻船が大阪湾岸地域と江戸間を就航するようになると、江戸で消費される酒の9割が上方産の「下り酒」となった。
そして、その酒を運搬するための四斗樽の素材として使われたのが、吉野杉であった。その樽の数は、最盛期には年間100万個にも及び、用材の量を現在で換算すると、奈良県の年間の原木生産量にも匹敵すると推測される。
もともと吉野の杉は、真っ直ぐで節が少なく、年輪の間隔が詰まって丈夫であり、優れた建築材であることで知られた。それが、酒を漏らさない樽の素材として最適であり、また、酒の色を変色させることなく、適度に木の香りが移ることも好評であった。
その吉野杉の特徴は、本来、地域の気候や土壌、環境に基づく天然林のものであったが、伐採後に新たに植林する際にも、人工林で再現できるように図られた。その吉野林業独自の方法が「密植」であった。
一般的な植林の場合、1ヘクタールに3000本程度の苗木を植えるが、現在も吉野で引き継がれる「密植林業」では、それよりも樹間を狭めて10000本前後もの苗木を植える。これによって木を太りにくくし、年輪の間隔を緻密にして堅牢な木材とするのである。
また、植林後、木の成長にあわせて間伐を数多く繰り返すことを特徴とし、間伐材の売却をもって林業の運営に充当する。植林から約100年後の最終段階では、選抜された300本から500本の木となる。
建築に用いる材木は、切り倒したのち原木のまま、杉の場合は半年ほど放置して「葉枯らし」を行ない、水分を減らしたのちに山から下ろされ、吉野川で筏(いかだ)に組んだのちに和歌山方面へと川を下って運ばれた。
一方、酒樽用の杉材は大きさが決まっていることから、伐採した山中で板に加工されたのち、井形に積み上げて乾燥させ、その後、板を丸く束ねた「樽丸」とし、これを背負って山から下ろして丸太の筏に載せ、出荷したという。戦前まで樽材が大きな比重を占めていたことから、吉野林業を「樽丸林業」とも呼んだ。
写真:吉野中央木材の製材所にて。手前の皮をむいた杉の丸太は木樽用の素材
吉野林業を語るうえで忘れてはならない人物に、土倉庄三郎(どぐらしょうざぶろう)がいる。
天保11年(1840)、吉野郡川上村の林業家に生まれた庄三郎は、15歳で家業を継ぎ、明治時代を迎えると、吉野郷材木方大総代、県産物材木取締役となり、林業の要である輸送路の整備にあたった。吉野川の改修や東熊野街道の整備などである。
また、奈良公園の造林にも関わったのち、明治31年(1898)には、伝来の造林技術に自らの研究による工夫を加えた成果『吉野林業全書』を刊行。各地の林業に影響を与え「日本林業の父」とも称された。
山縣有朋(やまがたありとも)から「樹喜王(じゅきおう)」の称号も贈られた庄三郎は、社会活動にも尽力し、自由民権運動の後援者となり、同志社大学や日本女子大学の創立に資金を提供したことでも知られる。地元の川上村においては、私費で小学校を設け、教科書や文具のみならず、東京銀座で仕立てた制服を生徒に支給。当時日本一といえる教育水準を実現したという。
子どもへの教育こそ、将来の国のためになるという考えがあってのことであり、ここから多くの人材が育っていった。これらの事跡はまた、当時の吉野林業がそれほどの財力を生むものであったことを物語るものでもあろう。
吉野町の吉野貯木場に軒を並べる木材工場の一つ、吉野中央木材株式会社を訪れ、この7月に父の跡を継いで代表取締役社長になった石橋輝一さんにお話を聞いた。この貯木場の昭和14年(1939)開設にあわせて前身の会社を興したのは、石橋さんの祖父の兄で、祖父兄弟は川上村の出身。ここに移る前は、川上村で林業を営み、樽丸板も製造していたという。
「かつての樽丸林業にかかわる職人の男たちは、山中の宿舎にひと月ほど泊まり込みで作業にあたっていました。祖母から聞いた話では、そこへ妻や子が食事を運んだ際、帰りは樽丸を背負って戻ったといい、それがよい収入になったそうです。地元の人たちの間に循環する経済が成り立つことで、樽丸林業は地域に広まったのでしょう」
その樽丸林業の時代が終わり、代わって林業を支えた、戦後の復興と成長期の材木ブームも過ぎて久しい。20年ほど前に家業に戻ったという石橋さんは、人手不足や国産材の需要低迷という現在の林業の課題に向き合ってきた。
「国産材の利用促進ということで、この10年ぐらいの間に公共施設などで国産材を使っていこうという動きが見られるようになりましたが、私たちも地域の後継者でつくる団体を通じて、材木工場の見学イベントなどの企画を進めてきました。まずは木について知ってもらいたいと願ってのことです」
その思いは、地元中学校に入学した生徒と一緒に学校の机を作り、卒業時に持って帰ってもらうプロジェクトや、ゲストハウス「吉野杉の家」の建築というかたちにつながってきた。
ただ、そうしたPR活動を次の世代に譲り、自身の事業を考える年齢になってきたと石橋さんはいい、これまでの活動から育ってきた事業を挙げる。
「日本酒や醤油の仕込み桶である木桶の素材としての吉野杉の提供です。最初は15年前、地元酒造会社とチームを組み、新しい木桶で酒を醸造するプロジェクトを始めました。新桶では1年目は良い酒は造れないといわれていたのですが、吉野杉の木桶では最初から良い酒を造ることができ、改めて桶の素材としての吉野杉の素晴らしさを確認しました」
杉樽仕込みの酒は、その後も「百年杉」の銘柄で限定生産され、人気商品となっている。
酒の木桶と並行して、醤油の木桶への吉野杉の利用も始まった。きっかけは小豆島の醤油メーカーからの、木桶を使った本物の醤油を造りたいという声掛けだったという。素材面でのサポートを起点に醤油醸造関係者とのつながりが増え、他のメーカーの木桶製造にかかわるまでになった。木桶で仕込んだ醤油は、海外で高価で取り引きされるという。
「当社の杉材の売り上げの5分の1ほどを、木桶用が占めるようになりました。ただ配慮しなければならないのは、建築用の杉は木目が変だからといって強度的には問題はないのですが、そうした杉材を樽に用いると中身が漏れる可能性があり、木目を見て木取りをする経験と技術が求められます。そういう目利きに応える素材としても、密植林業から生まれた吉野杉がやはりもっとも優れています。ほかの地域でも密植が行なわれてはいますが、そういう杉が豊富にあるのは吉野の地しかありません」。
実は近年、需要減少を背景に、吉野では樹齢100年を超えた杉林も伐採されることが少なく、苗木を植える機会が減っているという。石橋さんたち有志は「密植復活プロジェクト」を立ち上げ、まずはこの秋に杉の種を取って苗木を育てるところから始めようと計画している。100年後にも新しい杉樽で造られた酒や醤油を味わってもらえるようにと。
更新:11月21日 00:05