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300年余り続く「岸和田だんじり祭」 空襲で焼失しても受け継いだ、市民の祭りにかける思い

2024年08月26日 公開
2024年09月10日 更新

兼田由紀夫(フリー編集者)

岸和田城
写真:周辺がだんじり祭の場となる岸和田城。祭りの起源ともかかわりが深い

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず! 「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

大阪府岸和田市といえば、全国的に知られるのが「だんじり祭」。岸和田城旧城下の市街地をだんじりが疾走し、そのまま交差点を豪快に転回する見どころ「やりまわし」は、季節のニュースとしてテレビでもよく紹介される。ただ、映像では見えにくいかもしれないが、そのだんじりには、前後左右の全面に精緻な木彫が施されている。今回はその「だんじり彫刻」に、地元の人々の心意気を探った。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

 

いまも生きる歴史文化としての祭り

交差点を「やりまわし」で駆け抜けるだんじり〔写真提供:岸和田市〕。写真は大工町のだんじりで、お話を聞いた山本仲伸さんが彫り物を手掛けた。令和6年の岸和田だんじり祭の開催は、9月14日宵宮・15日本宮
写真:交差点を「やりまわし」で駆け抜けるだんじり〔写真提供:岸和田市〕。写真は大工町のだんじりで、お話を聞いた山本仲伸さんが彫り物を手掛けた。令和6年の岸和田だんじり祭の開催は、9月14日宵宮・15日本宮

大阪府南部は旧和泉国にあたり、現在も泉州の名で呼ばれる。この地域の要衝として、中世から城が置かれてきたのが、岸和田である。江戸時代に入ってからも、大坂の南の守りとして譜代大名が治める城下町として栄えた。例年9月、その旧城下町を中心にして執り行なわれる岸和田だんじり祭は、始まりから300年余と伝え、地域の文化として地元の暮らしに深く根付いている。

 

城主が認めた、城下の町衆による祭礼を継承

だんじり会館
写真:岸和田城の近くにある「だんじり会館」。だんじりの実物展示や映像で、祭りを体感できる施設。彫り物の紹介もしている

岸和田だんじり祭の起源は一般的に、元禄16年(1703)、岸和田城主・岡部氏が伏見稲荷を城内の三の丸神社に勧請し、城下の民が祭りを行なったことが始まりとされる。ただ、諸説があり、もっと古くから祭りがあったとする地域もある。

多くのだんじりが城内にある岸城(きしき)神社に宮入りするが、この神社も地域のほかの社を合祀してきたという経緯があり、江戸時代の岸和田城下では神社ごとに、6月、8月、9月と年に3回の祭りがあったらしい。明治10年(1877)、岸城神社に宮入りする南祭りと岸和田天神宮の北祭りを同日として、このとき以降、一つの祭りになったという。

岸和田だんじり祭の運営で特筆されるのは、祭禮(さいれい)年番という各町の代表による組織が統括していることである。年番とは、1年ごとに選ばれる祭りの最高責任者で、その存在の記録は享和3年(1803)まで遡る。現在は今年で222代目となる年番長のもと、補佐、補助をする各町年番をあわせて28名の組織で運営されている。

だんじり祭の見せ場はなんといっても、勇壮な「やりまわし」。本来は直進しかできない構造である重量およそ4トンのだんじりを疾走させながら、役割を分担した人々が呼吸を一つにして一気に方向を転換する。祭りの根源といえる生命エネルギーの放出がここにある。

ただ、やりまわしをするようになったのはそれほど古いことではなく、昭和初期に道路が拡張されてからである。それ以前のだんじりは、城下の紀州街道を行き交ったといい、狭い旧街道を、速さを競い、追いかけ、すれ違うことから、しばしば衝突してけんかが起き、「けんか祭り」と呼ばれるほどであった。

以来、問題を避けるために、岸和田の人々は年番を中心に自分たちでルールを定めてきた。昭和30年代以降、だんじりのすれ違いを基本的にないようにし、経路を一方通行にしたのも自分たちで決めたという。岸和田の祭りの運営3条件とは、自主運営、自主警備、自主規制。主催者はあくまで祭りの当事者である自分たちだといいきる。このことを知ると「やりまわし」にも、強い意志表示が感じられて、さらに魅了されるのである。

 

だんじりへの熱い思いを映して

工房で製作する山本さん写真:工房で製作する山本さん。素材の欅(けやき)は固く、あら彫りで鑿(のみ)を打つ金槌には力が入る

太平洋戦争末期の昭和20年(1945)7月10日、岸和田市街に空襲があり、6名の死者と約130戸の家屋焼失という被害が出た。この際、中之濱(なかのはま)町のだんじりも焼失。空襲を心配して浜辺の納屋に避難させていたことが裏目に出て、風に流された焼夷弾によって被災したのである。

戦後まもなくから、だんじり祭の再開の動きが始まる。昭和22年(1947)、23年と中之濱町の若者たちは、隣町の好意によってそのだんじり曳行に参加させてもらうが、23年の祭りでだんじりを転倒させてしまい、以降の参加が難しくなる。

そして、昭和24年(1948)、祭りを見ることしかできなかった若者たちは決意して、町会にだんじり新調の申し入れをする。これを受けた町会は、小学校講堂で町民大会を開催。議論ののちに全町民による投票を行ない、新調を決定した。

その資金は、当時の町の全175戸に公平に日掛け10円、2年間にわたって積み立てることとした。いまだ戦後の食べ物も十分ではなかった当時、10円というと現在の100円ほどの価値。それを毎日、全戸で積み立てたのである。新たなだんじりは2年後の祭にはほぼできあがって曳行され、翌昭和27年(1952)に完成。現在も大切に引き継がれている。

現役のだんじり22台のうち、戦後に造られたものは14台。特に平成時代には12町のだんじりが新調された。それらもまた、町の人々をはじめとした祭りの参加者たちの多大な出資によって実現したことという。祭りとだんじりに寄せる地域の思いは今も変わらない。

そして、その思いの結晶といえるのが、だんじりに施された彫刻なのである。岸和田出身で、現在は貝塚市に工房「木彫山本」を構えるだんじりの彫物師、山本仲伸(なかのぶ)さんにお話を聞いた。

「岸和田のだんじりの彫り物は、欅を素材に仕上がりはその木目を生かし、塗装はごくわずかに抑えるところが特徴です。一般的なだんじりの場合、金具など高価な装飾を多用したものがありますが、岸和田のだんじり自体、そうした装飾はあまり使われていません。おそらくは当初、質素倹約を図る必要があり、そうしたなかで彫り物に力が入れられて、競い合ううちに、むしろ簡素な木彫りで表現することが値打ちだと捉えられるようになったのでしょう」

彫り物の題材には、映画やテレビがなかった時代に人気を博した、講談の主人公や物語がよく取り上げられる。ただ、そこには時代が反映していて、幕末のころのだんじりには『三国志』などを題材にしたものが多い。上方の講談の主人公は、徳川家に対抗した大坂方の武将などが多く、幕府への配慮から取り上げにくかったのだろうという。

「それらの登場人物たちの活躍が誇張されているように、だんじり彫刻にも大げさな動きや構えが取り入れられています」

山本さんの作品は、特に迫力ある表現で定評があり、これまで岸和田以外の地域のものを含めて、数多くのだんじりを手掛けてきた。「この地域の人たちは目が肥えているので、ここにもうちょい模様を入れてほしいとか、注文が多くてなかなかたいへんです」と笑う。

山本さんのもとには、だんじり彫刻を踏まえた置物などの調度品の依頼も多い。それへの応対では、耐久性があって加工しやすい檜(ひのき)を素材として薦めることもあるという。しかし、「そこは欅で」と指定されることがほとんど。だんじりへの愛着は一人ひとりの心にも深く根付いているのである。  

七福神が題材の壁掛け写真:山本さんの木彫作品、七福神が題材の壁掛け。左に少し見えるのは、下絵を施した素材で、ここから立体を彫り出していく

 

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