2024年09月26日 公開
写真:「碾茶(てんちゃ)」の茶葉を育てる、覆下(おおいした)栽培の茶畑。現在は専用の黒い布で覆うが、かつては葭簀(よしず)が使われた。宇治川沿いの「お茶と宇治のまち歴史公園」内にて。畑の向こうに見える黒い屋根の施設は、地域の茶文化の発信もしている交流館「茶づな」
あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。
古くから高級茶の代名詞「宇治茶」とともにあった茶どころ、京都府宇治市。現在も、宇治橋周辺の中心市街には茶の老舗が集まり、昔ながらの店構えが風情を生み出している。
その町に近年、目立つのが抹茶スイーツを扱うショップである。和菓子だけでなく、洋風のケーキやクッキー、かき氷やソフトクリーム、多様な商品が国内外の観光客の手に取られ、さながら抹茶カラーに町が染まるようである。そして、そのような宇治で静かに存在感を示すのが名物「茶だんご」である。その背景を抹茶の歴史とともに探った。
【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。
【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。
写真:宇治川に掛かる宇治橋にて。川へと突き出た部分は「三の間」といい、豊臣秀吉が茶会のための水を汲んだところと伝え、「宇治茶まつり」では、ここで「名水汲み上げの儀」が執り行なわれる
ひと言で「茶」といっても、現在は日本国内だけでも多種多様なものが飲用されていて、そのイメージも人それぞれかもしれない。しかし、やはり基本は「茶の木」から採った葉を乾燥させ、熱い湯に入れて喫するものである。
もともとは紀元前より中国で飲まれ、その文化導入とあわせて、日本では世界の他の地域より比較的早くから飲用されてきた。ただ、導入時期ごとに喫茶方法に移り変わりがあり、独自の進化も生まれたのであった。茶だんごなどの抹茶を食材とする「食べる抹茶」もその進化形の一つといえよう。
写真:宇治川餅本店の茶だんご。左の色が濃いだんごは、ほうじ茶を使ったもの。苦味が少なくて香ばしいので、小さい子どもにも人気
日本国内への茶の導入の最初は、奈良時代の遣唐使によるものであった。当時の茶の喫し方は、固めて乾燥させた茶葉を搗(つ)いて粉状にし、煮えた湯のなかに入れて煮出して飲む、煎じ茶のようなものであったらしく、寺院を中心に薬用として用いられていた。平安時代初期の嵯峨天皇にも供せられ、茶の栽培をするよう勅命があったという記録が残る。
二度目の茶の導入期は、鎌倉時代初期。中国から禅宗が伝わるとともに、禅寺で発展した茶の飲用法が広まる。茶葉をより細かい粉末に挽いて「抹茶」とし、それを碗に入れて湯を注ぎ、茶筅(ちゃせん)で点(た)てて喫するものである。この飲用の仕方を「点茶法(てんちゃほう)」という。
ちなみに現在のように、一度蒸しあげて乾燥させた茶葉「煎茶」を、急須などの茶器に入れ、湯を注いで淹(い)れる方法は「淹茶法(えんちゃほう)」といい、江戸時代以降に一般化したものである。
さて、抹茶の歴史である。もっとも早くに中国で禅を学んで帰国した僧・栄西は茶の効用を説く『喫茶養生記』を著したことでも知られる。禅と茶の関係の深さがうかがえ、禅の教えと礼法が、武士層に迎え入れられるとともに抹茶も普及していく。
栄西が持ち帰った茶の種は、京都栂尾(とがのお)に高山寺をひらいた明恵(みょうえ)上人の手に渡り、高山寺周辺で栽培が始まる。明恵はさらに茶の増産を図り、新たな栽培の地として選んだのが、宇治であった。宇治市の萬福寺の近くに「駒蹄影園(こまのあしかげえん)」跡碑が立つが、ここがその茶園の地であるという。
室町時代に入ると、武士層への茶の普及から「闘茶」や「茶の湯」の文化が生まれる。特に武将同士の関係が一族の存続に直結する戦乱の時代においては、濃密な関係を築く場として茶席が重要視され、織田信長や豊臣秀吉も積極的に茶会を行なったことはよく知られるところである。そして、その場を仕切る茶人たちも、千利休をはじめとして歴史に名を残す存在となった。
それら茶人たちは「わび茶」文化の洗練を図るだけでなく、抹茶の高品質化も追求した。茶葉をより細かく挽くために茶臼を用いるなどの工夫とともに、茶葉そのものの改良も図られることになる。そして、生産が始まったのが「碾茶(てんちゃ)」であった。
碾茶とは、一番茶の摘採に先立つ期間、茶畑に覆いをかけて日光を遮る「覆下栽培」によって作られた茶葉のこと。この碾茶から製された抹茶は、渋味が少なく、濃い旨味や甘みに加えて「かぶせ香」と呼ばれる芳香がある。また、色合いも緑色が鮮やかである。
いま海外からも注目される日本独特の抹茶はここに誕生し、新たな茶文化の発展へとつながった。茶だんごをはじめとした抹茶スイーツも、この歴史なしでは生まれることはなかったのである。
写真:「宇治茶まつり」の会場ともなる興聖寺。参道の「琴坂」は紅葉の名所として知られる
茶の本場であるだけに、茶とセットである和菓子の老舗も宇治には少なくない。それらの店でも茶だんごを取り扱うが、その製造が始まったのは、さほど昔からのことではなく、大正時代に宇治の和菓子店の一つが売り出したのが最初という。抹茶を取り入れた菓子が、いかにも宇治の地にふさわしいことから、以来、製造販売する店舗が増え、宇治を代表する土産として定着した。
今回、訪問した宇治川餅本店は、もとは宇治で旅館を営んでいたが、53年前から地元土産店などに卸す茶だんごの製造をはじめ、現在は製造所に直販店も置く。代表の安井克典(よしのり)さんに話をうかがった。
「茶だんごは、茶ようかん、茶あめと並ぶ、宇治を代表する銘菓です。地域には茶だんごのメーカーがたくさんありますが、うちでは、だんごを通して宇治茶を食べていただくという思いで作ってきました」と安井さん。石臼挽きの抹茶を使い、着色料や添加物を用いないその茶だんごは、見た目も素朴な昔ながらの姿である。
茶だんごの製造方法は、まず米粉を湯水と混ぜ合わせ、その固まりを半蒸の状態まで蒸し上げる。それに抹茶と砂糖を合わせたペーストを練り込み、小さく丸めて成形、串を刺すなどし、最後にもう一度、本蒸をして仕上げる。季節によって、湯水の温度に気を使うという。
「抹茶は加熱しすぎると黒ずんでしまうので、扱うのが難しい食材です。また、年ごとに品質の違いがあり、配合などを試行錯誤することもあります」
宇治川餅本店では、風味を重視して、抹茶の量を多めにしているとのこと。やや色味が濃いのは、その証しという。香り高いだんごを目当てに直販店を訪れる、地元のファンも多い。
「観光シーズンの影響を受け、需要の変動が大きい商品ですが、近年は宇治の観光も様変わりしてきました。昔は、京都から奈良に向かう修学旅行生のバスが立ち寄り、平等院を見てお土産を買っていくという感じでしたが、町を散策される方の姿を多く見るようになり、海外からの観光客も増えました。あわせて飲食店なども増え、夜遅くまで営業しているところもあります」
宇治が、本年のNHK大河ドラマのヒロイン・紫式部の著作『源氏物語』の舞台であり、「源氏物語ミュージアム」が所在するということからの来訪増も感じていると安井さん、これからさらに期待とほほえむ。
毎年10月第1日曜日(令和6年は10月6日)、宇治では「宇治茶まつり」が開催される。栄西禅師、明恵上人、千利休の3人の茶祖の遺徳をしのぶ祭事で、宇治橋で汲み上げられた水を古装束の一行が運び、宇治の禅寺・興聖寺にて「茶壺口切りの儀」などを執り行なったのち、茶祖に茶が献じられる。
祭事会場では茶席が設けられ、名産品の販売もあってにぎわう。宇治の茶文化の一端に触れての帰り、お土産には、やはり茶だんごをお勧めしたい。