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「銘菓・玉椿」を喜代姫の輿入れで用意した、姫路藩の名家老・寸翁の思い

2024年07月22日 公開
2024年09月10日 更新

兼田由紀夫(フリー編集者)

姫路城天守
写真:姫路城。日本で最初に世界遺産に登録され、昨年30周年を迎えた

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず! 「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

今回は、兵庫県姫路市の「和菓子」。国宝にして世界遺産の優美な姫路城天守をいただく城下町姫路。近世播磨の経済、文化における中心都市であり、ここでは茶の文化とともに、和菓子の文化も古くから栄えてきたという。その菓子のなかでも地域を代表する逸品が「玉椿(たまつばき)」である。この銘菓とともに語られる名家老の存在、そしてその家の数奇な歴史を追った。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

 

徳川幕府の重鎮、譜代大名が治める城下町にて

白鷺城(はくろじょう)の別名でも知られる姫路城。その名の通り、白い翼を広げるかのような姿で訪れた者を魅了する。しかし、この城はただ美しいだけの存在ではない。西国における徳川幕府の要であり、代々、幕府重鎮の譜代大名が城主となってきた。

寛延2年(1749)、この城に入った酒井忠恭(ただずみ)もまた、老中首座を務めた人物である。しかし、その入府は当初より、波乱に満ちたものであった。ことに、一人の家老の存在が中心となって勃発する騒動が、世間を驚かすことになる。

 

姫路藩家老三代、激動のときを越えて

寸翁神社
写真:姫路城天守北東にある姫路神社の摂社、寸翁(すんのう)神社。社前に祭神となった河合寸翁の像が立つ。昭和52年(1977)、地元商工産業界の奉賛によって建てられた

徳川幕府の成立以来、姫路に転封となるまで、譜代大名・酒井家は上野国前橋(現在の群馬県前橋市)に居城を置き、忠恭で9代を数えた。しかし、利根川の治水に苦労するなど、経営が難しい地であるうえに、幕閣としての支出も多く、債務は膨らむ一方であり、財政は難しい局面を迎えていた。

その状況で画策されたのが、より豊かな地への領地替えであり、候補地として挙がったのが、姫路であった。要人への工作が実り、この国替えは幕府の承認を得るところとなる。

ところが、酒井家の姫路入府は最悪のタイミングとなった。前年の夏、大旱魃に襲われながらも前領主の松平氏は年貢を抑えず、民の不満が高まるなかで藩主が没した。藩政は動揺し、一部所領で農民の蜂起が始まる。さらに、年が明けて国替えが公表されると、借金の踏み倒しを恐れた民衆が各地で庄屋などを襲撃する。寛延大一揆である。

この一揆は寛延2年2月ごろに鎮静するが、これによって新藩士の移住が遅れ、ようやく始まったばかりの7月に台風が襲来。城下の船場川が氾濫して町に浸水し、死者・行方不明者は400名を超えた。8月にも再び台風が直撃し、このときには農地への被害に加えて3000名余の死者が出た。財政改善をめざした酒井家の計画は、完全に裏目に出てしまったのである。

これら一揆の後始末や災害に対処せざるをえなかったのは、先遣役として姫路に入った家老の川合定恒(さだつね)であった。定恒は水没した城下町の人々を独断で姫路城内に避難させ、備蓄米を被災者に提供するなど、領民の保護に尽くしたという。

しかし、災害対応が一段落ついた寛延4年(1751)7月、その定恒が、同格の国家老・本多光彬(みつあき)と江戸家老の犬塚又内(ゆうない)を自邸に招いたうえで、両名を斬り捨てて殺害。定恒も切腹するという事件を起こす。世を震撼させた「姫路騒動」である。

実は、姫路転封を画策した中心人物こそ、光彬と又内であり、秘密裡に進められたこの計画が内定して藩士一同に伝達されたときに、ひとり強く反発したのが定恒であった。

「前橋城は、権現様より拝領した際、『この城は江戸の守護として築かれた、二つとない城である。永代にわたって所替えなど願い出ることなく、幕府からも申し付けることはない』とのお言葉をいただいた城。これを捨てるのは不忠である」

というのが、彼の主張であり、藩主の忠恭にさえ、激しく意見したという。

家老・川合家は、もとは「河合」の姓を称して徳川家康に仕え、酒井家が家康の家臣から大名へと出世する際に、家康の命で付家老となったという経緯があった。いわば目付役である自分を出し抜いての、光彬たちの所業に対して、自身の立場を貫くという意志も事件の背後にあったのであろう。

事件後、川合家は断絶。跡継ぎで当時19歳の宗見(むねみ)は、母ら家族とともに叔父のもとに預けられることになる。

 

春を告げる「玉椿」に込められた万感の思い

伊勢屋本店
写真:姫路の商店街、西二階町にある伊勢屋本店の店内。「玉椿」にちなむ壁面の椿の絵が印象的

宝暦5年(1755)、同情の声が大きかった川合家に配慮してか、宗見が書院番に召し出されて家名を再興。次第に加禄のうえ地位を高めて、ついに安永7年(1778)、父の旧禄1000石とともに家老の地位を回復するに至った。その出世の過程の明和4年(1767)に誕生したのが、嫡男の道臣(ひろおみ・みちおみ)である。天明7年(1787)に宗見が病死すると、21歳で家老職を引き継ぐ。

家老となった道臣を待っていたのは、天明の大飢饉(1783-1787)によって疲弊した領地の復興と、またもや窮することとなった藩財政の再建であった。しかし、改革を進めようとした矢先の寛政2年(1790)、後ろ盾であった姫路における2代目藩主・酒井忠以(ただざね)が没し、保守派からの反発が高まるなかで、道臣は失脚させられる。

とはいえ、3代目藩主・忠道(ただひろ・ただみち)の時代となっても財政の立て直しはいかんともしがたく、文化5年(1808年)には、藩の借金は歳入の4倍を超える73万両に達し、その支障は藩主家の日常生活にも及んだ。道臣は忠道によって再度登用され、藩政改革に臨むことになる。

壮年となった道臣は、20年近い空白期間に知識と行動力を蓄えていたとみられ、以後、数々の改革に進めていく。質素倹約。新田開発。義倉「固寧倉(こねいそう)」の設置。この倉の穀物は飢饉の備えとなるだけでなく、平時は領民に低利で貸し付けられた。

製塩、朝鮮人参栽培などの商品開発。そして、物流拠点である飾磨津(しかまづ)の整備などである。それでも、莫大な借財の返済のためには、大胆な決め手となる対策が必要であり、そのために道臣が着目したのが、姫路木綿であった。

加古川・市川流域で栽培される綿を素材に、藩内で織ってさらして生産される木綿布は、色が白く薄地で肌触りがよいことから、江戸で「姫玉」「玉川晒(さらし)」と呼ばれて好評を博した。しかし、その流通は大坂商人によって独占され、思うほどの利益につながらなかった。この姫路木綿を藩による専売体制のもとに置くことを、道臣は考えたのである。

この前例のない計画を実現するために、姫路藩は江戸において早くから調査と働きかけを進めた。なかでも強力な後押しとなったのが、藩主の嫡男・忠学(ただのり)と、時の将軍・徳川家斉(いえなり)の娘・喜代姫との婚約であった。文政5年(1822)、この婚約の成立にあわせて、江戸町奉行所に問屋への藩の木綿専売を認めさせることに成功。利益を喜代姫の化粧料にあてるという名目であった。

道臣は城下町内の綿町に、すぐさま御国産木綿会所を設け、綿の栽培から綿布の生産加工・流通までを藩の管理下に置く体制を整え、早くも1年後に藩による専売を実現する。江戸の大店に卸された姫路木綿は年間300万反に及び、売り上げは24万両余の正金銀となった。藩の負債は7、8年で完済されたという。

この多大な功績の証として、道臣は先祖の姓「河合」への改姓が認められ、また、晩年、茶人でもあったことから「寸翁」の号を名乗った。現在では、河合寸翁の名で地元の偉人として親しまれている。

さて、姫路銘菓「玉椿」の話である。天保3年(1832)、喜代姫の姫路への輿入れは、寸翁にとっても人生のハイライトであったことだろう。これに先立って寸翁は、城下の菓子商にある依頼をしたという。以下は、元禄15年(1703)創業の老舗で酒井家御用菓子司も務めた「伊勢屋本店」の代表取締役社長、山野芳昭さんにうかがった話である。 

「喜代姫さんに姫路に嫁いでもらうにあたって、河合寸翁さんから当店に、江府(江戸)・洛中(京都)に劣らぬ、姫路が誇れるお菓子を作れという命がありました。当時、伊勢屋新右衛門という職人がいたのですが、その者を江戸に修業に出し、金沢丹後大橡(だいじょう)という屈指の菓子司のもとで学ばせました。そうして新右衛門が持ち帰った上生菓子のなかで、寸翁さんが一番気に入ったのが、薄紅色の求肥で黄身餡を包み、椿の花に見立てたお菓子でした。その『玉椿』という名前も、寸翁さんに命名していただいたと伝えられています」。

「玉」の語には姫路木綿「姫玉」の意が掛けられているという。そして、「椿」は春の訪れを告げる花。苦難とともにあった姫路藩主家の春、そして、大きな変転を経ながらも自らの家の春を迎え得たこと......。この銘菓には、それらへの寸翁の思いが込められているように思える。「玉椿」が生まれてから、すでに約200年。味、かたち、製造法とも、できるかぎり昔のままで変えないようにしているという。心して味わいたい。

玉椿
写真:姫路銘菓「玉椿」。直径3センチ少々の可憐な大きさに、洗練された味わいが宿る〔提供:株式会社伊勢屋本店〕

 

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