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中世荘園の原風景を残す泉佐野市・日根野に根ざす「人をつなぐ酒づくり」

2025年04月25日 公開

兼田由紀夫(フリー編集者)


写真:旧日根荘山手の入山田村にあたる、棚田が美しい大木地区。眺望が重要文化的景観に選定されている。四方を山に囲まれたこの小さな地に政基が居とした長福寺跡が伝わる

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

大阪府南部の旧和泉国の範囲を地元では泉州と呼び、さらにその南部を泉南地域という。その泉南地域の中ほどに位置する泉佐野市は、関西国際空港と連絡橋で結ばれた、対岸の町としてよく知られる。今回は同市で、地域の歴史文化を意識しながら生産される「日根野(ひねの)の地酒」に注目したい。

この日根野という地域は、摂政・関白の座に就いた高位貴族である五摂家の一つ、九条家が、鎌倉時代から室町時代後期まで荘園「日根荘(ひねのしょう)」を営んだ地である。その地域には、当時からの神社や寺院、田園風景が残り、平成10年(1998)に「日根荘遺跡」として国史跡に指定されている。

また、日根荘の古絵図と、この地に入って経営にあたった元関白・九条政基(まさもと)の日誌『政基公旅引付(たびひきつけ)』が伝わり、それらが語るストーリーが、令和元年(2019)、文化庁の日本遺産に「旅引付と二枚の絵図が伝えるまち─中世日根荘の風景─」として認定されている。この地に酒蔵を構えて100年余、地域とともに歩んできた蔵元に、酒づくりにこめる思いを尋ね、地域の歴史とあわせて紹介する。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

 

700年前の絵図に描かれた景観を伝えて

日根神社(右)と、隣接する慈眼院の多宝塔(左)写真:日根野の地域社会の中心を務めてきた日根神社(右)と、隣接する慈眼院の多宝塔(左)。鎌倉時代創建のこの塔は、日本多宝塔三名塔の一つに数えられ、泉佐野市唯一の国宝建築物である

日根荘が立てられたのは、鎌倉時代の天福2年(1234)。荒れ地が多く、開墾はなかなか進まなかったようだが、14世紀に入ると九条家によって本格的な開発が進められた。九条家みずからが荘園をひらいた稀有な事例ともいう。日本遺産の構成文化財とされる2つの絵図とは、この開発期の絵図である。

興味深いのは、そこに記された寺社や、ため池などが、名称こそ違えども現存することである。なかでも注目されるのは、「井川(ゆかわ)」と呼ばれる灌漑用水で、現在もその機能を果たしていて、令和4年(2022)には世界かんがい施設遺産にも登録されている。

そうした荘園時代の風景を残す日根野ではあるが、武力をもって地域の支配権を争う中世社会において、公家が経営を保持するのは困難を極めた。その様子をまざまざと物語るのが『政基公旅引付』である。

 

下剋上の世に危機に瀕する荘園の姿を語る

酒蔵祭でにぎわう北庄司酒造店の構内写真:酒蔵祭でにぎわう北庄司酒造店の構内。「山田錦」や「五百万石」といった酒米100パーセントの良質な酒づくりがファンを呼ぶ。北庄司さんいわく、水ナスなど名産の泉州野菜にあう酒[写真提供:有限会社北庄司酒造店]

九条政基は室町時代の中頃、文安2年(1445)に生まれた。元服以後、順調に位階を上げ、文明7年(1475)に左大臣、翌年には32歳で関白となった。文明11年(1479)に関白を辞退、その3年後に子の尚経(ひさつね)に家督を譲る。延徳3年(1491)には准三宮(じゅんさんぐう)の宣下を受けた。こう記すと、あたかも盤石の人生を歩んだかに見えるが、政基のころにはすでに公家の権威は地に落ちていた。

鎌倉時代初期、九条家は全国に120の荘園を有したといわれる。しかし、南北朝の動乱、応仁文明の乱と続く乱世のなかで、多くの公家の所領と同じく、武家や在地国人に押さえられ、政基の時代には12の荘園を残すのみであった。

その残る荘園の一つであった日根荘においても、当初の荘域は現在の泉佐野市のほぼ全域にあたる4か村であったが、政基の時代には海側の2か村は和泉国守護の細川氏の手に渡り、九条家が領するのは内陸側の日根野村と入山田村だけとなっていた。

そうしたなかの明応5年(1496)、政基は日根荘をめぐる金銭問題で、九条邸に押しかけた家司の唐橋在数(ありかず)を談判中に殺害するという事件を起こしている。元関白といえども、手を汚さずに生きることが難しい時代だったのである。

日根荘にさらに暗雲がかかる。政基は、日根荘の管理を紀州根来寺の閼伽井(あかい)坊の僧を代官に立てて委ねていたが、明応9年(1500)、守護細川氏と対立する畠山尚順(ひさのぶ)が根来寺衆徒の支援を得て和泉に侵入。日根荘が争乱に巻き込まれる可能性が高まった。

翌文亀元年(1501)4月、九条政基は日根荘に下る。みずから采配して危機を乗り切ろうとしたのである。すでに57歳、隠居の身で思い切ったのは、日根荘が九条家にとってそれだけ重要な荘園であったからといえよう。そして、政基がのちに備えてここでの日々を記したのが『旅引付』であった。その記録をたどると、政基の危惧が現実となったことがわかる。

最初の盆こそ、村人たちの風流念仏を楽しんだ政基であったが、同年8月28日、守護の配下が日根野村に押し入る。村民がこれを追い払うが、9月に入っても守護勢乱入の風聞があり、政基は覚悟を決めて遺言をしたためることになる。

そして9月23日払暁、武装した約1000人の守護軍が侵攻。荘側は村々から200人ほどが集まり、これに相対する。防具もなく、劣勢の村人たちであったが、矢を射掛けあうなどして6時間もの合戦に及び、撃退に成功した。

1年後の文亀2年(1502)8月5日、今度は根来寺とその同盟者が和泉に攻め入り、守護方との合戦で日根野村西方が放火される。乱入者は根来寺方200人ほどだったが、これを攻撃すれば根来寺との関係が悪くなり、許容すれば守護方と敵対が深まることになって、政基は対応に苦慮。捕らえられる危険もあった政基は、8月21日、犬鳴山の七宝瀧寺(しっぽうりゅうじ)に避難する。

しかし、さすがに都の公家である。こんなときでも感慨を和歌に詠む。「夜もすがら岩根をつたふみ山ちの滝のごとくに汗ぞ落ちゆく」。23日に侵入者たちは撤退。翌日、政基は荘に戻った。

文亀3年(1503)、また新たな苦難が地域を襲う。6月下旬、和泉国の旱魃(かんばつ)が深刻になり、日根荘では滝宮、現在の大木地区の火走(ひばしり)神社で雨乞いをする。しかし、水は絶えて不作となり、翌年2月には食糧が尽き、多くの村人が餓死するあり様となった。

一部の村人は山で採った蕨(わらび)をさらして作った蕨粉で存命を図るが、これを盗む者があった。番を据えてうかがうと、夜に盗人が現れ、これを追うと滝宮の巫女の宅に入る。追手がうちに押し入ると巫女と息子兄弟がおり、その場で母子3人とも誅殺した。

話を聞いた政基は、母まで殺害することはなかったと嘆くが、わずかな食物でも命にかかわる状況にあって「是非に及ばず。自業の致すところなり」と、ただ念仏を繰り返すのであった。

同年のまま年号が変わった永正元年(1504)4月、根来衆がふたたび蜂起。これに呼応した粉河寺の衆が入山田村に入って滝宮に在陣する。危機感を覚えた政基は、書を遣わして彼らを村外に撤収させた。9月9日、根来寺と畠山氏らが守護細川氏を破り、和泉国を制圧。こののち政基は、ふたたび根来寺閼伽井坊の僧を代官に補任し、12月下旬に日根荘を発って帰洛。4年にわたった『旅引付』の記述もここに終わる。

九条政基は永正13年(1516)、京都で死去、享年72。政基が没して17年後、九条家に段銭(税の一種)が送られた記録を最後に、日根荘は根来寺の支配下に入ったとみられる。天正13年(1585)、豊臣秀吉の紀州攻めののち、日根荘を含む和泉国は、紀伊・大和とともに弟の秀長の所領となり、さらに江戸時代以降、旧日根荘地域は岸和田藩領となった。

 

地元への思いをこめて醸される地酒とともに

写真:旧酒蔵を活用したカフェ内の直販コーナーに立つ北庄司知之さん

「子どものころの遊び場といえば、地元の神社やお寺でしたね。特に日根神社にはよく行きました。神社の裏手に樫井川が流れる『ろじ渓』という渓谷があって、川で遊んで濡れたまま帰ってきたりしたものです」

そんな昔話を語ってくれたのは、日根野の酒蔵、有限会社北庄司酒造店の4代目蔵主で代表取締役の北庄司知之さんである。

この日根神社は、和泉五社の一つとして平安時代の『延喜式』にも記される古社で、日根荘時代の絵図には「大井関神社」の名で記される。樫井川から取水した井川用水が境内を流れ、地域繁栄の要であるこの用水を司る社とされたのであろう。かつて旧暦4月2日に行なわれた祭礼では、九条政基も猿楽奉納を見物している。

その春の祭礼は、現在5月4日・5日に開催される「まくらまつり」に引き継がれている。地元の人たちが手づくりした飾り枕をいくつも連ねた三基の幟(のぼり)が、神輿(みこし)とともに町内を巡行したのちに神前に奉じられる奇祭で、良縁・安産・豊作を祈願するものという。「祭りの行列は、うちの酒蔵の横の旧道を通ります。私も子どものころは、神輿を載せた山車を引っ張りにいきましたよ」と北庄司さんは話す。

泉佐野市で唯一の酒蔵である北庄司酒造店の創業は大正10年(1921)。創業者の曾祖父は、地元で年貢をいただく家の人だったと聞いている、と北庄司さん。

「年貢の制度がなくなり、どうしようかということで、いろいろと商売を手掛け、なかには蚊取り線香の製造もあったらしいです。そんなときに、地元の人からの要望があって酒造業を始めたといいます。ただ、曾祖父は一滴も酒を飲まない人だったらしいのですが」

昭和初期から「幻の酒」と呼ばれた吟醸酒の生産を手掛けるなど、意欲的に酒造に取り組み、戦時中の泉州の酒造業者が合併した企業合同時代を経て、昭和26年(1951)に2代目の祖父が現在の会社を設立。戦後の復興から高度成長期に増産を進めて事業を拡大した。

しかし、時代の変化とともに日本酒の需要が減少。昭和中期から後期に泉州地域におよそ30軒を数えた蔵元も、現在は5軒という。平成4年(1992)、北庄司さんの父が3代目を継ぐと、「荘の郷(しょうのさと)」という新たな銘柄のもと、少量高品質の酒づくりに転換。同時に創業以来の2つの酒蔵を改装し、空いたスペースにホールを設けてイベントを催すなど、地域に親しまれ、人が集まる蔵元へと歩み始める。

3年前の創業100周年に4代目として会社を継いだ北庄司さんだが、日根野に戻ってきたのは13年前のこと。

「継ぐ者がないなら会社の清算をしようと、父は考えていたところでした。そのころ、かつて泉佐野市長を務められた向江昇さんにお会いしたとき、酒蔵は地域のものだから、北庄司家だけで考えて廃業するというようなことはしてはいけない、と諭されたことがあります。会社を継ごうかと考えるきっかけになりました」

北庄司さんが酒蔵に入ってから始まったのが、酒蔵を一般開放しての酒蔵祭。ライブイベントのほかに屋台も出て、地元の人だけでなく、遠方からの日本酒ファンも加え、2000人から3000人が集まる。2年前からは、土曜・日曜・祝日に「蔵Moto Cafe」をオープン。バイクが趣味の北庄司さんが、同好の士の集いの場にしたいと始めたものである。

『政基公旅引付』には、地域の文化を育み、身を挺して地域を守る村人たちの姿も記される。その時代の風景が残るように、地元への思いもまた引き継がれてきたのではなかったか。人をつなぐ酒づくりの場に、それが見えるように思った。

 

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