2018年03月04日 公開
2019年02月27日 更新
松平定信・白河楽翁像(南湖神社 福島県白河市)
天明8年3月4日(1788年4月9日)、老中首座・松平定信が11代将軍徳川家斉の将軍補佐となりました。これより寛政の改革が本格化していきます。
松平定信は御三卿田安家の初代・宗武の七男に生まれました。田安宗武は8代将軍吉宗の次男であり、従って定信は吉宗の孫になります。幼い頃より聡明で、いずれは田安を継ぎ、さらに10代将軍家治の後を継ぐ将軍候補と目されましたが、当時の老中・田沼意次を「賄賂政治」と批判したため睨まれ、陸奥白河藩に養子に出されることになりました。
天明3年(1783)、定信は白河藩主となりますが、時は天明の大飢饉の最中です。特に東北地方の被害が大きく、全国で数万人が餓死したといわれる江戸時代最大規模の飢饉でした。この時、定信は自ら倹約に努めて藩政立て直しに取り組むとともに、領民救済を迅速に行ない、領内から一人の餓死者も出さなかったといわれます。
やがて定信の政治手腕は幕府の注目するところとなり、10代将軍家治逝去とともに田沼が失脚すると、天明7年(1787)、定信は老中首座に抜擢され、幕府財政の再建を託されました。定信は享保の改革を断行した祖父・吉宗を手本として、6年に及ぶ寛政の改革に取り組むことになります。
改革の骨子は田沼時代の賄賂が横行した商業主義を見直し、緊縮財政と風紀取締りにより、幕府財政の安定化を目指すものでした。江戸市中では幕府と町民共同で「七分積金」という基金を積み立てて、道路や上下水道の修繕費用に充て、また長谷川平蔵の献策といわれる、石川島人足寄場(犯罪者の自立支援)も設置しています。さらに学問では朱子学以外を禁じ、蘭学者を公職から追放、洒落本などは風紀を乱すとして取締りの対象としました。こうした定信の厳しい引き締め政策は、「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼恋しき」などと揶揄されることもありました。
一方、この頃から日本近海で外国船の出没が始まり、日本人漂流民・大黒屋光大夫がロシアから日本に戻る際、ロシア使節・ラクスマンが日本に通商を求める事態が起きています。定信は海防を説く林子平の『海国兵談』を幕政に口を挟むものとして発禁処分としますが、海防の必要性は痛感しており、江戸湾防備に着手する一方、海防政策に乗り出したところで、老中を罷免されました。
しかし、定信の危機感は、次男で真田家に養子に入った真田幸貫が継承し、後に外様ながら幕府老中兼海防掛を務めることになります。また伊能忠敬の全国の測量や、間宮林蔵の樺太・沿海州調査も、外国船への危機感が契機となっています。
現代では寛政の改革は否定的に評価されがちですが、特に海防においては幕府にまず危機意識を持たせたのは定信であり、そうした功績も見直すべきなのかもしれません。
更新:11月10日 00:05