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日本酒の伝統的容器「菰樽」 生産地の尼崎に訪ねて知る成立事情

2025年11月27日 公開

兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)

韓国での日本酒のPRイベント会場において、ディスプレイに使われた各地の日本酒メーカーの菰樽〔以下を含めてこの記事の写真提供:株式会社岸本吉二商店〕写真:韓国での日本酒のPRイベント会場において、ディスプレイに使われた各地の日本酒メーカーの菰樽〔以下を含めてこの記事の写真提供:株式会社岸本吉二商店〕

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

舞台の真ん中に菰樽(こもだる)を据え、その封である鏡板を木槌で叩き割る「鏡開き」。それは、祝宴の始まりを告げる印象的な場面である。また、酒造メーカーごとに趣向を凝らした飾り樽が、奉納された神社の境内に積み上げられた光景もよく親しまれている。

とはいえ、酒樽に菰を巻いて菰樽に仕上げる技術が、兵庫県尼崎市の一地域に所在する、わずかな事業者によって引き継がれていることを知る人は多くはないだろう。菰樽の誕生と関わりが深い、近世の上方から江戸への酒輸送の歴史とともに、その背景と現在を紹介したい。 

【筆者:兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31 年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9 年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【編者:歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991 年に発足。

 

酒造の量産と発展を生んだ桶と樽

専用の織機を使って菰を織る。10年ほど前までは、この写真のように農家の内職だったが、現在は岸本吉二商店内で製造している写真:専用の織機を使って菰を織る。10年ほど前までは、この写真のように農家の内職だったが、現在は岸本吉二商店内で製造している

木製容器の種別として、樽は「結物(ゆいもの)」とされる。幾つもの短冊状の板を並べて側板とし、竹や金属の箍(たが)で締めて結った構造により、そう呼ばれる。古代から先行して存在した、一材をくり抜いた「刳物(くりもの)」や、一枚の板を曲げて側板とする「曲物(まげもの)」よりのちに成立した木工技術であり、平安時代後期以来の日宋の交易によってもたらされた品を手本に、鎌倉時代から結物の桶(おけ)や樽が国内で生産されるようになった。

特に室町時代後期以降、商品経済の発達とともに大きく頑丈な容器が求められ、桶や樽といえば結物が一般的となる。明応3年(1494)に成立したとされる絵巻物『三十二番職人歌合(うたあわせ)』には結桶師(ゆいおけし)が取り上げられ、のちの世と変わらない製造作業の姿が描かれてもいる。

なかでも、その桶と樽を発展の楚としたのが酒造業であった。古代より醸造と輸送に用いていた甕(かめ)に替えて、量産を可能とする大型の桶と、軽く輸送しやすい樽を導入することで、生産と販路を拡大していく。そして、菰樽もこの酒輸送の現場から誕生するのであった。

 

江戸へと運ばれた「下り酒」の揺りかご

樽に菰を巻く職人を「荷師(にし)」と呼ぶ。慣れた荷師なら一樽を仕上げるのに10分ほど。ただし、慣れない人なら1時間かけてもできないことも写真:樽に菰を巻く職人を「荷師(にし)」と呼ぶ。慣れた荷師なら一樽を仕上げるのに10分ほど。ただし、慣れない人なら1時間かけてもできないことも

戦国時代の16世紀中頃、当時「諸白(もろはく)」と呼ばれた清酒が、奈良の寺院で最初に造られる。江戸時代に入ると、その製法を引き継いで、摂津国(現在の兵庫県・大阪府)猪名川流域の伊丹・池田を皮切りに上方での清酒の量産が始まる。一方、急速に発展して人口が増加する江戸では酒の需要が高まり、これに応えて上方からの酒の出荷が図られることになる。

伊丹では当所、酒を入れた樽を馬に積み、陸路で江戸に輸送したと伝えるが、大量輸送の手段として上方の酒造業者が着目したのが、廻船(かいせん)であった。

元和5年(1619)、大坂から江戸へ、船による最初の生活物資輸送が行なわれ、寛永元年(1624)より大坂に廻船問屋が複数並び建つ。その運航船を菱垣(ひがき)廻船と呼んだ。江戸への積荷のなかには当初から酒があったが、杉樽に詰められ、揺られて運ばれるうちに、杉材の香りが移ってまろやかな酒となり、これが江戸の人々の間で人気を博すことになる。いわゆる上方からの「下り酒」である。

下り酒人気を受けて、寛文年間(1661-1672)には、酒造業者の支援のもと、酒樽を主な荷とする船が現れる。酒造業者が独自の廻船を仕立てるようになったことには、ほかにも理由があった。通常の菱垣廻船は、多様な商品をあわせて積むために、出航までに日数を要することが多く、生ものである酒を扱う業者にとって難があった。また、かさ高く荷を満載することで船の安定性が悪くなり、海難の危険が高まる。その海難の際に破棄される上積荷物に対する補償を、荷主の酒造業者も応分に負担するという定めもあり、彼らには理不尽なものと映った。

元禄7年(1694)、江戸と大坂それぞれに荷主仲間が結成され、一切の貨物は専属の菱垣廻船に積載し、手続きは菱垣廻船問屋に一任することを取り決めたが、運用に不満を抱く酒造業者は、享保15年(1730)にそこから脱退。酒造業者専門の廻船問屋を結成し、酒樽の運搬に適した専用船による輸送を開始する。これを樽廻船という。

酒樽を下荷に据えた樽廻船は、船が安定して迅速であった。樽廻船問屋は、余裕がある上荷に酒以外の物資も積載するようになり、運賃も安く設定したことから、他業者からも支持を得て、のちには菱垣廻船を圧倒していくことになる。

樽廻船問屋は、淀川河口の伝法(でんぽう)に加えて西宮に拠点を置いた。これを期に勃興するのが、近隣の地、灘の酒造である。享保年間(1716-1736)から頭角を表し、諸国の米豊作を受けて幕府が宝暦4年 (1754)・文化3年 (1806)に酒造を奨励する令を発したことをはずみに、増産を進めた。江戸時代後期の文政4年(1833)、上方から江戸へと積み出された酒が四斗樽(しとだる)で113万6千樽に及んだこの年、灘からの酒樽はそのうちのおよそ60パーセントを占めるまでになった。

 

地元の農家で織られてきた菰をもとに

菰に文字を印すための菰樽印。古くは焼き印が使われた。菰に銘柄を装飾的に印刷するようになったのは大正時代からである写真:菰に文字を印すための菰樽印。古くは焼き印が使われた。菰に銘柄を装飾的に印刷するようになったのは大正時代からである

菰樽とは、四斗樽を稲藁(いねわら)で包んだ上から菰で巻き、稲縄で縛ったものである。稲藁と菰は、船に積載した際、波に揺られた樽がほかの樽などと衝突して破損するのを避けるためのクッション材であり、実用性から生まれたものであった。江戸時代中期、樽廻船が成立したころから用いられるようになったという。

「当社は、私の曽祖父の岸本吉二が始めた商店を起点としていますが、その吉二の先代から、地元の農家が農閑期に作った、酒樽用の菰や縄を買い入れて酒造業者に納めるという商いをしていました」。尼崎市塚口本町で菰樽の製造を引き継ぐ、株式会社岸本吉二商店の代表取締役の岸本敏裕さんが、明治33年(1900)という創業時のことを語る。

岸本吉二商店は、現在の国内で菰樽を生産する最大手であり、ほかに製造する事業所は2社のみといい、うちの1社は尼崎市の同地域にあって、この地域だけで、全国に流通する菰樽の70パーセントを製造するという。その背景には、尼崎が江戸時代から、菰樽に用いられる菰と縄の産地だったことがある。

以前に吉野杉をこの連載で取り上げた際、上方の酒造業用の樽に用いる杉材の多大な需要が、吉野林業の繁栄を支えたことを述べた。菰樽用の菰や縄もまた、膨大な量がこの地で作られたことが想像できる。

尼崎市に残る古文書によると、尼崎城下に巻き菰と縄の仲買を営む荒物屋仲間が、文化15年(1818)から天保12年(1841)と、嘉永4年(1851)から明治2年(1869)の間に存在し、文政7年(1824)には17軒、嘉永4年には5軒を数えた。主に灘の酒造業者を得意先とし、なかには三河(現在の愛知県)への納入の記録もあり、巻き菰の特産地的な位置づけを得ていたようである。

明治以降も事業を続けた仲買人もあり、岸本吉二商店はその一人から声を掛けられて事業を始めたと聞く、と代表取締役の岸本さんはいう。

明治以降、樽廻船は洋式帆船や蒸気船にとって代わられ、さらに鉄道へと、酒の輸送手段は遷り変わっていく。また、明治10年代から日本酒の容器としてガラス瓶が使われはじめ、大正時代には一升瓶入りが販売量の半数を超えた。それでもめざましい国内の人口増加によって、戦前まで樽酒の流通は維持され、尼崎の農家にとって菰縄作りは大きな副収入であったという。

もっとも、時代の変化のなかで、もとは酒造メーカーで行なっていた、銘柄などを印した「印菰(しるしこも)」の制作、さらには樽に菰を巻いて菰樽を仕上げることも、地元の菰縄仲買事業者が請け負うようになり、菰樽の製造を専業とする事業者が成立したのである。

しかし、戦後になると、20社ほどあった尼崎の菰樽事業者も減じていくことになる。「尼崎市内に田んぼがなくなって久しくなりました。ほかの地域の農家でも稲をコンバインで刈り取るようになり、今では稲藁の入手も難しい。神戸市北区や三木市内の農家にお願いして、秋に昔ながらの方法で稲刈りをさせてもらい、稲藁を確保しています。そして、それを自社で菰にしたり、関係先で機械を使って縄を作ったりしています」と岸本さん。ただし、数多くは作れず、現在は稲藁製を特注とし、ポリプロピレン製の菰や縄を使うのが基本になっている。

「先日、明治神宮に行ったのですが、来られている人の7割ほどが外国の方でした。境内には各蔵元が奉納された菰樽を積み上げて飾ってあり、そこがフォトスポットになっていて、外国の人たちが皆、その前で写真を撮っている。どれだけ撮るのだろうと感心して見ていました。その飾り樽の8割ほどは当社の製品でしたね」。昔の実用品も、「和」の意匠を伝える工芸品的なものへと、いつしか世の見方も変わってきたのである。

岸本吉二商店では、1.8リットルや300ミリリットルの小さな菰樽も製造していて、それを使った酒造各社の製品が海外の人のお土産として人気なのだという。自分でお酒を入れて使える小型の鏡割り用菰樽「ミニ鏡開きセット」など、ユニークな製品の開発にも取り組み、自社のショッピングサイトで販売している。

もうすぐ新年。祝いの場で菰樽を見ることも多くなりそうである。かつて波に揺られていた、その過去の姿にも思いをはせてほしい。

 

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