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黒田官兵衛・有岡城幽閉の中で到達した思いとは

2014年04月23日 公開
2022年07月25日 更新

童門冬二(作家)

『歴史街道』2014年2月号より》

黒田官兵衛
 

スタッフではなくラインを望んだ官兵衛

 渡部昇一さんの著書『ドイツ参謀本部』の中に、次のような趣旨の記述がある。

 参謀本部が日の当たらない片隅に捨ておかれ、誰の目も惹かない単なる作戦事務所であった時には、よく機能した。ビスマルクという強力なリーダーのもと、有能なスタッフ(モルトケ参謀総長)が力を発揮し、目覚しい成果を上げた。ところがその成功でドイツ参謀本部が世界から注目されると、「参謀本部の無名性」が失われていく。そして第一次世界大戦では、リーダーが弱く、スタッフが強いというアンバランスで、ドイツは敗北した…。

 参謀の在り方というものを、端的に示す事例であろう。参謀とは、仕える将の手足ではない。将の頭脳の中に溶け込み、その一部となって、自分の存在を消した「匿名の個人」でなければならないのだ。人前に出てきて「私が頭脳でございます」とやったら、おかしなことになってしまう。その点は、戦国時代の「軍師」も全く同じであった。

 しかしながら黒田官兵衛は、性格的にそれができなかった。おそらく彼はスタッフ(補佐役)ではなく、ライン(指揮官)になることを望んでいたのだろう。自ら軍を指揮し、功績を上げたかったのだ。ところが現実は、織田家の部将、羽柴秀吉のスタッフである。そんな己が抱える葛藤に、嫌でも向き合う機会になったのが、有岡城での幽閉ではなかったか。

 秀吉が播磨に乗り込んできた天正5年(1577)、官兵衛はその先導役を買って出て、東播磨の諸豪族に織田方に味方するよう説き、おおむね成功した。ところが翌天正6年(1578)2月、東播磨の最大勢力である別所長治が突如離反、中国の毛利方に寝返ってしまう。すると別所配下の国人領主たちも、続々とそれに従った。その中には官兵衛の正室の実家、櫛橋氏も含まれている。順調だった秀吉の播磨経略は一転、暗礁に乗り上げ、先導役を務めた官兵衛の努力も水の泡となった。

 やむなく秀吉は別所長治の三木城攻めを始めるが、同年10月、今度は播磨の秀吉の後方支援役を果たしていた摂津有岡城主の荒木村重が、織田信長に叛旗を翻す。これには信長も驚いたというが、秀吉にすれば信長との連絡が断たれ、腹背に敵を迎える危機となった。

 さらに由々しきことに、官兵衛の主君・小寺政職も、別所氏に同調して織田方からの離反を企む。噂を聞いた官兵衛が、翻意を促そうと慌てて御着城に駆けつけると、政職は「荒木村重殿を織田方に戻るよう説得できるのであれば、思いとどまる」と言った。かくして官兵衛は村重を説得すべく、単身、有岡城に乗り込むのである。時に官兵衛、33歳。

 

囚われても恨まず。諦めず

 かつて伊丹城と呼ばれていた摂津の有岡城は、荒木村重によって大幅に修築され、低湿地と地形の高低差を巧みに利用し、四周を堀と土塁が巡る惣構えの城になっていた。天正5年に城を訪れた宣教師ルイス・フロイスは、「壮麗なる城」と賛嘆する言葉を贈っている。

 そんな荒木村重と官兵衛は、もともと親しかったようだ。摂津と播磨が隣接することもあり、信長は小寺政職の家臣である官兵衛の働きに対し、荒木村重を仲介して賞する言葉を伝えさせている。村重と官兵衛は、交わるうちに互いの人柄と能力を認め合っていたはずだ。官兵衛が叛逆した村重の城に乗り込む決断ができたのは、自分の交渉能力に対する自負と、村重への信頼感があったからだろう。

 ところが官兵衛は、有岡城に入るや否や有無をいわさず捕らえられ、城内の土牢に入れられてしまった。『黒田家譜』によると、御着城の小寺政職があらかじめ村重に密使を送り、「官兵衛が訪ねてきたら、そちらで殺してほしい」と依頼していたのだという。明敏な官兵衛は、すぐに自分が主君に裏切られ、捨てられたという現実に気づいたに違いない。

 官兵衛が幽閉された土牢がどんなものであったのかは不明だが、大正時代に著わされた『黒田如水伝』には、「有岡城西北隅。背後に溜め池。三方が竹藪。一日中陽は差さず、湿気が強い」とある。おそらくは薄暗く、じめじめとした不衛生な場所であったのだろう。

 そんな土牢に閉じ込められ、主君に裏切られたことを悟った官兵衛の心境は、どのようなものだったろうか。しかも小寺政職は、荒木村重に官兵衛の命を奪うよう要請しており、生かすも殺すも村重次第であった。普通であれば主君への怒りや恨み、展開を読み誤まったことへの自嘲の念が湧くところであろう。心の弱い者ならば、絶望するかもしれない。

 しかし私は、官兵衛は恨みもせず、生を諦めもしなかったと考える。

 まず小寺政職の裏切りについては、最初から織田か毛利かでぐらついていた主君である。官兵衛に「荒木村重を説得できたら」と言ったのは逃げ口上で、毛利に寝返った別所氏に同調する心は変わらなかったのだ。その際、障害となる官兵衛は切り捨てられた。しかしこれは、戦国の世では「よくある話」である。「やはり、そうか」と、驚くにはあたらなかったはずだ。では、それを予測しながら官兵衛は、なぜむざむざと捕らわれたのか。実はそこにこそ、官兵衛の真骨頂があると私は思う。つまり「たとえどうなろうと、俺は主君を裏切るまい」という強烈な信条である。裏切りが日常茶飯事の世にあって、官兵衛は受けた恩義を忘れず、義理堅さを通す男であったのだ。

 また牢内で官兵衛は、命を奪われるとは考えていなかったろう。それは荒木村重が、義を重んじる男であることを知っていたからだ。

 「思うところあって信長に叛いたにせよ、翻意を促すために訪れた自分を殺すようなことは、村重はしない」。そんな強い信頼感を、官兵衛は村重に抱いていたのではないかと思う。

 一説に、栗山善助や母里太兵衛ら官兵衛の家臣が密かに城中に忍び込み、官兵衛と連絡を取ったという。また牢の門番の加藤又左衛門が、官兵衛に対して親切であった。これらも城主の村重が看過しなければあり得ず、官兵衛は村重の真意を確信したのかもしれない。

 ただ、有岡城に赴いたまま戻らない官兵衛を、織田方が荒木村重に通じたと勘違いする懸念はあった。そうなれば、織田家に人質に出している息子の松寿丸(後の長政)の身に危険が及ぶだろう。実際、官兵衛の内通を疑った信長は、松寿丸を殺すよう秀吉に命じていた。官兵衛もそれは予測したろうが、こればかりはどうしようもない。秀吉がうまく対処してくれることを祈るしかなかった。

 一方の秀吉は、官兵衛が裏切ったとは信じていなかったが、多少ぐらついている部分もあった。中国方面の先導役として、官兵衛は秀吉にとって不可欠な人材であったが、いつも官兵衛の鼻の先にこれ見よがしにぶらさがっている知力に、どちらに転ぶかわからない不安を覚えてもいたのである。しかし、最終的に秀吉は、信長の命令よりも官兵衛への信義を重んじ、竹中半兵衛に密かに松寿丸を匿わせている。官兵衛と秀吉の間にも、強固な信頼関係が結ばれていたと見てよいだろう。

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著者紹介

童門冬二(どうもん・ふゆじ)

作家

1927年東京生まれ。東京都職員時代から小説の執筆を始め、’60年に『暗い川が手を叩く』(大和出版)で芥川賞候補。東京都企画調整局長、政策室長等を経て、’79年に退職。以後、執筆活動に専念し、歴史小説を中心に多くの話題作を著す。近江商人関連の著作に、『近江商人魂』『小説中江藤樹』(以上、学陽書房)、『小説蒲生氏郷』(集英社文庫)、『近江商人のビジネス哲学』(サンライズ出版)などがある。

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