軍師・官兵衛は父・黒田職隆譲りの信義に厚い武将だった!
軍師・官兵衛は父・黒田職隆譲りの信義に厚い武将だった!
【今日は何の日】 慶長9年3月20日、黒田官兵衛孝高が没 慶長9年3月20日(1604年4月19日)、如水こと黒田官兵衛孝高が亡くなりました。竹中半兵衛重治とともに、羽柴秀吉を支えた天才的な参謀として知られま...
歴史街道 » #黒田官兵衛の記事一覧
【今日は何の日】 慶長9年3月20日、黒田官兵衛孝高が没 慶長9年3月20日(1604年4月19日)、如水こと黒田官兵衛孝高が亡くなりました。竹中半兵衛重治とともに、羽柴秀吉を支えた天才的な参謀として知られま...
何かと注目される主役級の偉人たちの陰に隠れた、日本史の脇役たち。普段はあまり光が当たらない彼らだって、もっと注目されてもいいのでは? 熱い想いを持った歴史好きな皆さまのご応募により、意外な人物やなかなか渋...
今日は何の日 天正18年7月5日 北条氏直が降伏、小田原開城 天正18年7月5日(1590年8月4日)、北条氏直が豊臣秀吉に降伏し、小田原城が開城しました。秀吉の天下統一はこれでほぼ成ったとされます。 戦国...
『歴史街道』2014年11月号 [総力特集:官兵衛と関ヶ原より 「天下惣無事」崩壊…九州を切り取り、第三極のキーマンを目指す 大名間の領地をめぐる私戦は一切許さず、従わない者は天皇の...
本能寺の変で織田信長横死。関与の有無は別にせよ、その報せを聞いた時、羽柴秀吉と黒田官兵衛はどんな感情を抱いただろうか。 ※本稿は、『歴史街道』2014年9月号より一部抜粋・編集したものです。 ...
黒田官兵衛がキリシタンであったことは、よく知られている。彼が入信したのは天正11年頃とされ、 毛利氏との領土画定問題や大坂城普請などに奔走していた時期だ。 ※本稿は『歴史街道』2014年2月号より一...
《 『歴史街道』2014年2月号 より》 スタッフではなくラインを望んだ官兵衛 渡部昇一さんの著書『ドイツ参謀本部』の中に、次のような趣旨の記述がある。 参謀本部が日の当たらない片隅...
『歴史街道』2014年2月号 [総力特集]黒田官兵衛より 黒田家には譜代の臣は存在しない。官兵衛の父職隆の代に姫路城主となり、家臣団が形成された。初代家老を曾我大隅守という。官兵衛が家督を継いで、二代目家老にな...
《『 歴史街道』2014年2月号 [総力特集]黒田官兵衛 より》 黒田職隆は小寺氏に仕え、小寺姓と名の「職」の字を賜った。 ところが小寺氏の完全な配下ではなかったとする見方がある。 一方...
『歴史街道』2014年2月号 [総力特集]黒田官兵衛<総論>より一部を抜粋 人生の転機となった出会いと幽囚体験 「運命の出会い」という言葉がありますが、織田家の部将・羽柴秀吉との出会いは、官兵衛にと...
『歴史街道』2014年1月号 より 数多い軍師の中でも、抜群の手腕で天下に名を轟かせた男たちがいる。秀吉に参謀として仕え、天下人へと押し上げた竹中半兵衛と黒田官兵衛。伝説的な名軍師の活躍とは? ...
『歴史街道』2014年1月号 より 竹中半兵衛像 一般的なイメージの、作戦を立案する参謀型の軍師は、戦国中期に登場した新しいタイプだった。従来の軍師は、陰陽道を駆使して占術に長けた「軍配者」であるという...
更新:11月24日 00:05